今月のコラム

この欄では、毎月気付いてほしいこと、気にしてほしいことについて一テーマ毎月書いていきます。

ぜひ取り組んでみてください。


2016年のコラムはこちら


2017年 6月のコラム 腹筋禁止


さてさて。薄着の季節になってきました。

会員さんが「お腹まわりが気になる」とおっしゃいます。


お腹と言えば、先生、腹筋でしょうか?


彼女は、「腹筋運動」のことを指しているのだと思いますが、多くの人もお腹の運動=腹筋運動だと思っておられると思います。

お腹の力で上半身を起こす運動、ですね。

確かに、腹筋運動をしてバリバリに割れた腹筋もカッコいいのですが、私の会で腹筋運動は推奨しません。

いや、むしろ禁止としたいところです。


なぜって?

腹部の筋肉(腹直筋、腹斜筋、腹横筋)は、何のためにある筋肉でしょう?

なぜ、腹直筋はああいうふうにいくつかの区画に分かれているのでしょうか。

答えは簡単です。腹部の筋肉は身体を曲げるためにあるのではなく、腹部の臓器が前に落ちないようにコルセットのように固定するためのものなのです。


ならば、腹部の筋肉には腹部の筋肉の仕事をさせてください。

普段だらっとしていて、腹筋運動で腹部の筋肉を使うとどうなるでしょうか。

身体を曲げるのに、(もしくは身体を起こすときに)、腹筋を使うようになります。

身体を起こすのに、腹筋は要りません。

腹筋なしで、身体を起こすことをしてみると、それが実に合理的で楽な動きかわかります。

腹筋運動に慣れた身体は、必要のないところで腹筋運動のような動きをしようとします。

それは、身体的にはシンドイ動きで、腰にも負担をかけます。


だから腹筋運動はしないでくださいと、私は言うのですが・・・。


それでも、あのコマーシャルのような身体にあこがれる?

痩せるのは、運動ではなく、食事が肝心ですよ。

私は腹筋運動の非合理性を理解してから、あのような腹筋の割れたバキバキの身体には興味がなくなってしまいました。


百獣の王ライオンも、動物たちは腹筋運動はしません。

見せる身体ではなく、動ける身体。

それも、「楽に動ける身体」を目指しませんか?

そして、実際には楽に動ける身体のほうが、美しいかもしれません。



2017年 5月のコラム 限界を知る


皆さま、美しい5月の連休をいかがお過ごしでしょうか。


さて、今日は学生さんたちによく聞かれることをご紹介していきましょう。

とんなことを聞かれるのでしょうか。


「せんせい! 学生時代に必ずやっておくとよいことがありますか?」

「しておくと良いことがあれば、教えてください!」


そうですね。勉強でも運動でも日々の心がけでも、やっておくと良いことはたくさんありますね。

でも、一つだけだとしたら、私は「限界を知っておいてね」と言います。

どこまでなら自分でやれるのか。自分は何ができて、何ができないのか。

そういうことを知っておいてほしいと言います。


たとえば。

今のあなたの服装で、靴で、装備で、一時間にどのくらい歩けますか。

一時間歩いたあとの身体の感じはどうですか? 毎日そのくらいは平気ですか?

食事をしないでどのくらい動けますか。

一日に飲んでる水はどのくらいですか?(危険なので、水なし耐久レースはやらないでください)。

風呂に入らずに、どの程度我慢できますか? 髪を洗わずにどのくらい持ちますか?

洗面器一杯の水で身体が洗えますか? 二杯ならどうですか?

どこでも眠れますか? 眠るのに何が必要ですか?

睡眠時間はどの程度削れますか?


できなくてもいいんです。

できないことを知っておくことが大事です。

ぜんぜん歩けませんでしたでも、いいんです。

時間のあるときに、どのくらい自分が「できないのか」を試してみて下さい。


「三食食べなかったら動けない」

「この枕がないとダメだ」みたいな先入観は捨ててください。


私たちの身体は、かなり融通がきくように出来てます。

そして、何かあった時に何ができるか、何ができないかを知っておくのはとても役に立ちます。

特殊部隊の人たちみたいに、自分ひとりでサバイバルをする必要はありません。

でも、誰かを助けたいと思っても、自分の能力を知らないと、逆に迷惑をかけてしまいます。

私は真の自立とは、「自分ができないときに、きちんと助けを求める能力があること」だと思っています。


人助けの話には目を輝かせる学生さんたちも、自分の能力を知る、限界を知るという話になると、ちょっと腰が引けてしまいます。

人を助ける前にやらねばならないことを、肝に銘じてください。

人を助けるためには、自分がきちんと立てていること。(これは、精神的にも、肉体的にもです)。

そして、自分の能力をよく知っておくこと。

能力の多寡にかかわらず、できることは、たくさんあります。


学生さんでないあなたにも、何かヒントになりませんか?





2017年4月のコラム 目指す身体


一つ質問です。

どんな身体を目指していますか?


 え? そんなの当たり前でしょ。健康な身体ですよ。


そういう答えが返ってきそうですね。

じゃあ、聞き直します。「健康な身体」ってどんなですか??


からだ塾とは無縁の某所では、「病気じゃない、怪我をしていない身体!」と即答が返ってきました。


私はさらに聞きます。

 病気をしたらダメなの?

 怪我したらダメなの?


その方は、そんなこともわからないのかと呆れ顔で「ダメです」とおっしゃいました。


私は、心の中で軽くため息をつきました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


生きている限り、病気しないことはないでしょう。怪我をすることもあるでしょう。

年齢を重ねれば、どこか痛むこともあるのが人生です。

それを排除して生きる、健康のために「無理をしないで安全第一で生きる」ことは、人生を丸ごと生きていると言えるでしょうか。

私たちは、健康のために人生を生きているわけではないんです。

無茶もする、馬鹿もする、無理もする。

怪我もする、病気もする。


それでも、私は健康であると言いたいのです。

怪我をした身体、病気の身体丸ごと、受け止めていくのが健康ではないかと。

身体の声を聞けること、身体を丸ごと受け入れることは、怪我していても、病気していても可能ではないでしょうか。

辛いこと、しんどいことも含めて、私の身体で、私の心です。


私たちが目指す身体は、怪我をしない(してない)身体でもないし、病気をしない(してない)身体でもありません。

もちろん、身体の使い方を学ぶことで怪我を減らす、病気を減らすことはできます。

しかし、いったん怪我をした、病気をしたと思ったら、身体からのお手紙です。

深く感じてほしい。


健康と病気を対立させる必要はない。

かの野口晴哉先生も、そうおっしゃっています。


敏感な弾力のある身体、できることを喜ぶ身体。

そして、痛みを聞ける敏感なこころ。

悲しいことも、辛いこともきちんと感じることのできる素直なこころと身体。

開かれた身体と、開かれたこころ。


自分の老いていく身体と、真正面から向き合うことも重要ではないかと思います。

老いていく身体を感じること。(老いることは、衰えることとは違います! 老いは挫折ではありません。)

そして、意外なことにどんなに年齢を重ねても、身体は変わります。

こころも変わります。

もちろん、どんな身体を目指すか。人それぞれで良いと思います。

それに向けて、いくつになっても変わるのです。



あなたは、どんな身体を目指しますか?


2017年3月のコラム 他人任せにしない


稽古会では、感覚トレーニングをやります。基本は一人で自分のからだを感じてもらうことです。感覚の稽古です。どこまでが自分で、自分の足、自分の指がどこにどのようにあるのか。足の中指を感覚してくださいと言われて、すぐに意識が行く人は今までほとんどいません。


自分のからだでありながら、足指は全部5本でまとめてざっくりと「足指」で、指の一つ一つが分かれていません。さらに背中も肩も腰も、感覚することが大変難しい部位です。


巷にあふれるマッサージや、整体、エステに通い続けた方がおっしゃいます。


腕の良い先生を見つけても、結局その場だけで「治らない」のです。


通えば治る。治っている間はいいんだけど、またすぐ痛む。


そうでしょうね。腕の良い治療者がいるとなると、無理をしても大丈夫、少々乱暴な使い方をしても大丈夫ってなりますよね。なんせ、すごい先生がついているんですから。治してもらい続けなければなりませんね。それでよいという人もおられますから、私はそれでも良いと思います。


しかし、ここ、からだ塾では、その方向とは真逆を行きます。自分のからだを自分で感じ、自分のからだと対話し、自分のからだと治癒力を育てるのです。


あなた任せ・・・では、自分の感覚する力、治す力が生まれてきません。


痛みは大切な情報です。からだからのお手紙なんです。


それをしっかり読んで、そうかそうか、その使い方は嫌なんだね、ごめんね。次はこうやってみるねと、からだと話し合わなければ、お手紙を生かすことはできません。


もちろん、今までからだと対話したことのない人に「はい、感覚してください」と言っても無理です。ですから、他人に触れてもらったり、言葉をかけてもらったりして、手助けがあるとよいのですが、それはあくまでも補助です。


主体は自分であること。他人に任せないこと。


どうでしょうか。できることは自分でする。手助けが欲しければ、手助けを頼む。真剣に自分のからだに向き合う。もちろん、手助けをする相手にも真剣に向き合うのです。


そのことは「からだ」の問題にとどまりません。もし、あなたが、自分自身と向き合い、他人任せにしない意識を持ち続けて真摯に生活するなら、あなたの人生が変わるでしょう。からだが変われば心が変わる。すべてが変わります。





2017年2月のコラム  身体にまかせる

私たちの稽古会では、身体を感じる力が大切だと考えています。。

そもそもの足の指はどうだったか、どのように地面を感じるか。

そして、身体に良い動き、ほぐし、ストレッチ、姿勢などをシェアしています。


その時、私は必ず皆さんに言うことがあります。


「毎日やってはだめですよ」


多くの方が、「毎日やってください」と言われるのではないかと思っていたらしく、ポカンとして「どうしてですか?」 と聞きます。


毎日やるって、どういうことでしょうか。

毎日やると決めたらやるんです・・・ですか? だれが決めましたか? あなたですか? あなたの頭ですか?


頭です。


ひとしきり首をひねってから、皆さんおっしゃいます。その通り。頭ですね。意志であると言っても過言ではないでしょうね。


それはしないでほしいのです。歯を食いしばって、がんばる・・・、決めたことだから、最後までやる・・・、毎日しなくちゃいけないのだから・・・という心が、身体を見えなくしてしまいます。


私たちの会では、「身体がどう変わったか?」フィードバックをかけていきます。一週間に一度であっても、この使い方なら楽ちんだとか、安定した!?  みたいな身体感覚を味わっていただいています。それを家でやりたいと言って下さるのは本当に嬉しいことですが、義務にしないでほしいのです。

つまり、「楽だからやる」「やりたいからやる」ということなら、やってほしいのです。結果として、毎日やっちゃったけど、別に毎日やろうとは思わなかったのにね、というのなら、正解です。「毎日やる」と決めたからやるのはダメ。

人の身体の内在する力、自発力といいますか、身体がやりたいという声をきちんと聴けなければ、身体との対話はうまく行きません。


私は若いときは、一日何キロ歩いて、柔軟体操を何分何セットやって、素振りを何回、筋トレをジムでやって、道場で稽古して・・・と、スケジュールをびっちりと組んで、頭の指示に従ってトレーニングをしていました。何が起こるか。短期的には身体は作れます。しかし、長期的には身体の声を聞かず無理をして股関節と膝関節をすっかり壊してしまいました。もう空手はできない、ハイキックはできない・・・そういう絶望の中で、身体とどう付き合うかを考えて、今があります。(今は、できる範囲で空手を続けています)。


身体がやりたくないときは、やらない。

身体がやりたくないことをやらない。

素直に、身体の声を聞く。


え? 「休みたい」って声しか聞こえてこない?


じゃあ、じっくりしっかり休んでください。休んで休んで、動きたいという声が聞こえたら立ち上がる。

まずは、そこからです。

身体の声を無視しない。本当にやりたい、本当に動きたいというのを感じる。

どの動きならば、姿勢なら身体が喜ぶでしょうか。(稽古会にはそれらのヒントがあります)。

頭の命令で身体を動かすことをちょっとやめてみてください。

そこから、身体の声を聞きましょう!!



2017年 1月のコラム 目に見えないこと 1

新年が明けました。

初詣に行かれた方も多いのではないかと思います。

私たちの会では、「目に見えないこと」について、色々とお話することも多いのです。

目に見えなくても、感じることはありますし、目に見えなくても、感じなくても「ある」ものはある・・・かもしれません。

確信をもって言えないだけで、そこに「ない」と言うことはできません。(ちょっと哲学的命題ですね)。


私は科学的少女でしたから、「目に見えないものは信じない」「感じられないものは存在しない」と断じて恐れない子どもでした。

死んだら終わりだし、死体はモノだし、神社や寺、教会といった建造物が好きではありませんでした。

神仏もいないし、鬼も妖怪もいない。祈っても叶わないことばかりだし、呪っても何もおこらない。


そういう考えが大きく変わるのはいつ頃だったでしょうか。

幽霊をみたわけでもないし、神の声を聞いたわけでもありません。

ただ、目に見えないものを許容する世界のほうが豊かだなあと、感じたのです。

きっかけがアフリカ在住だったか、沖縄を旅したことか、親しい先生を見送ったことかはわかりません。

鈍い私は、いまだかつてそういう第六感的な経験はまったくありません。


それから、勉強をすればするほど、「人知でわかっていることはたったのこれだけか」ということを思い知りました。

ソクラテスの「無知の知」の認識かもしれません。大いなる自然世界の持っている英知や智慧は私たちの解明を拒んでいます。

その英知を「目に見えないもの」として、わずかでも捉えることができるなら、それは有用な知の在り方ではないでしょうか。

何もかも闇雲に信じるのではない。明らかに否定できるものでない限り、それを信じてみる。

私たちが、最初に行う実験もそういうものです。目に見えない力が、私たちの身体に作用するのです。

それを「バカバカしい」「トリックだ」というのは、簡単です。

かつて、トリックとして同じことができると請け負った人もいましたが、トリックで同じことができるとしても、何の意味もありません。

そういうことをしているのではないことをご理解いただければと思います。


理屈はよくわからないけど、なにかがあるよね。

そこから全てが始まります。

身体の可能性の、ほんのわずかなヒントがそこにあります。

きっと、数年後、数十年後にはこれらの現象も科学として解明されるかもしれません。

解明されるのを待っている必要はないし、時間もありません。


ただ、信じてやってみる。

それの有用性を感じる。(有用でないと感じれば、辞めたらよいのです)。

それだけで身体の可能性が開くとしたら、なんて簡単なことでしょうか。

目に見えないものを、ちょっと信じてみて下さい。