2017年のコラム

2017年12月のブログ  開脚ストレッチ


2017年も押し迫って参りました。皆様、お元気で年の瀬をお迎えでしょうか?
たぶん、お忙しいことと思います。
さて、普段のトレーニングと言えば、普通は筋トレとストレッチですね。
筋トレについては以前書きましたが(2017年6月腹筋禁止)、ストレッチについてはまだでした。
本屋さんに行くと、「開脚」ができるようになるという書籍が平積みだったのは、夏くらいでしょうか。
今でも、トレーニングのコーナーに行くと売れ筋として紹介されていて、かなり売れているとのことです。
ブログやインスタでも、そのテーマで引っ張るといくらでも出てくるものです。
(確かにインスタ映えしますね(苦笑))。
私たちも骨盤を意識した動きのために、開脚に似た動きの確認をする場合がありますが、決して「開脚ができる方が良い」とは思っていません。大切なのは、自分の意識が股関節と骨盤にちゃんと行き届いていて、自由にそれを使えることなのです。身体の固い人は固いなりに。柔らかい人はコントロールしなければならないところが増えますから、より細やかな意識がないといけません。
私たちの身体は、死んだ肉切れではありません。
引っ張って伸ばせば伸びるものではないのです。生きている筋肉は引っ張られれば、縮もうとします。その反射を利用してのハイキックだし、ダンスのはずです。
普通の開脚は、その反射を殺していきます。筋肉が縮みたいのに、無視して動かすと何が起こるでしょうか。
反射自体が徐々に弱くなります。
そもそも、ハイキックもしない、ダンスもしない人がなぜ180度の開脚をしなくてはならないのでしょうか。
(ハイキックもダンスも実は骨盤の操作で開脚ができなくても、かなりの高さまで脚を上げることができます)。
日常で開脚が必要な動作がありますか? 空手などの蹴りのある格闘技、ダンスをしない人が、日常の生活動作で使わない動きを「稽古の間だけ」する意味はなんでしょうか。
20年程前、ある人についてバレリーナ(主に教室の先生方)の身体に触れる機会がありました。
彼女たちの股関節はトレーニングでとても柔らかいのですが、内股の筋肉が弱く、踊りの中で細かに脚をコントロールすることが大変難しい方が何人もいました。
バレエを習っている子どもたちは、開脚トレーニングのせいでしょうか、過度の外旋のかかった緩んだ脚の人が何人もいました。
それって、必要?
私は彼女たちに聞きました。
必要です。バレリーナですもの。
彼女たちは、真面目に応えてくれましたが、私はずっと長い間引っかかったままでした。
股関節以外の関節は固かったことも、気になりました。
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その後、私は「変形性股関節症」の診断を受けることになりました。
私自身も、20歳から、バレリーナさんほどでなくても、ハイキックのために日々開脚を行い、高いところを蹴れるようにトレーニングを積んできました。その結果がこれでした。20年かけて、身体を壊したわけです。
人間の解剖生理学を教えるようになって、骨格標本が身近なものになりました。
ヒトの股関節の可動域について、他の動作との関連で考えることも多くなりました。
今、私が言えるのは、暇で暇でしょうがないから開脚でもしてみようかという人以外は、開脚ストレッチは無駄だよということです。無駄どころか壮大な身体に対する毀損かもしれません。
トレーニングすべきところはそこではない! 声を大にして言いたいのです。
開脚の本を買った人たちが、一時の熱が冷めてしまえば問題ありません。
今から20年後、私のように疾病を抱えるようにならなければ良いなあと願うばかりです。
もちろん、自分の身体を使って「壊してみる」っていう体験も大切かもしれないですね。
でも、あんな痛みは、私は経験しないならしないほうが良いのにナと思わないではいられません。
わかっていて覚悟してやるなら良いけど、私は誰かが「開脚ストレッチは危ないよ」「無駄だよ」と言ってくれていたら、こんなに真面目にやって身体を壊すこともなかっただろうと思います。
無駄なんです。
年の瀬の忙しいときだからこそ、自分に必要な身体の動き、身体操作について考えてみませんか。
無駄をなくし、痛めず、ラクに、いつまでもいつでもどこでも自由に動けるように!


2017年11月のコラム  目に見えないものを信じる 2 礼儀


前回、だいぶ前ですが、目に見えないものを信じることで世界は広がると書きました。


覚えていますか?

今日は、その「信じる力」をもう少し後押しして、目に見えない世界を味方にしませんか?


そうなんです。味方は多いほうがいい。

目に見えない世界も味方にしてしまいましょう。


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どうしたら、目に見えないのに味方になってもらえるでしょうか。

特定の宗教を信じるとか、何万円もお布施をするとか??

いいえ、それらは全く必要ありません。


私は、簡単なことではないかと、考えています。


それは、「自分だけが偉い」という前提を崩せば良いのです。

他人も偉い、自然も偉い、動物も植物も偉い。

あの世の人も、まだ生まれてきてない魂も皆偉い。


馬鹿にされたり無視されたりして、あなたの味方であり続ける存在はなかなかいません。


自分だったら、どういう人に手を貸したいか。

それを考えたら、粗暴で、他の存在を馬鹿にする人には、手は貸したくないですよね。


「自分だけが偉いわけではなく、他の存在も大切な偉い存在なのだ」ということを、どう行為として表したら良いでしょうか。

私は、まずそれは、礼儀ではないかと思っています。

それは、他人に対する礼儀だけではなく、世界に対する礼儀を尽くすことでもあります。


例えば、道場で。

きちんと挨拶をし、心を込めて清掃をし、その空間を使わせていただくという気持ちを行為で表します。

当たり前のことだと思っていましたが、最近は「誰もいない空間に頭を下げるのはおかしい」とか、「神様など信じないので、礼はしたくない」という方もおられるようです。


また、私は自分自身の身体にも、礼儀を尽くすことが必要だと思っています。

この手は、この足は、「私」を支えてくれている大事な身体です。手として足として、胴体として、身体として能力を発揮させるのが、礼儀だと思うのです。


もちろん、話は道場にとどまりません。

燃料や電力を無駄遣いすることは、自然に対して失礼だし、食べ物を腐らせて廃棄することも失礼です。

昆虫を恐れて騒ぎ立てることも失礼だし、夜中に心霊スポットなどに足を運ぶことも失礼極まりない行為でしょう。

あの世とこの世、人間の世界と自然の世界。

いつでも、どんな場面でも、礼儀を尽くす。

誰に、いつ見られても恥じないでいられるように、一貫した礼を失わない行為を心がけたいものです。

(たまに、講義で大きな声を出してしまったときには、私は後から恥じるのですが・・・。大きな声を出さずに、子どもたちの心に届くように伝えられないかと模索しております)。


すべての他者に礼儀を尽くすことで、あなたと世界の関係が変わります。




もちろん、「味方になってもらえるなら、礼をする」みたいな取引では、世界は動きませんので、あしからず!






 2017年10月のブログ 人の間で育つ


暑い夏のことをすっかり忘れてしまうくらい、涼しい(寒い!?)ですね。

皆さん、お元気ですか。


ある地下鉄でのこと。(山口県ではありません)。

武道仲間と立ち話をしていた私は後ろから、バッグをクイクイと軽く引っ張られました。

何か他の人の荷物と引っかかったかな? だれか呼んでるのかな?

しかし、引っかかったにしては意図を感じる繰り返しだし、呼んでるにしては弱い。


振り返ろうとしたら、お母さんらしき若い女性が、膝に抱えた赤ちゃんに「だめでしょ!」と言ったところでした。

そして、振り返った私にくたびれた感じで「ごめんなさいねえ」と頭を小さく下げました。


良いんですよー!! 赤ちゃんだものね。何にでも興味あるよねえ。


私が笑いかけると、その赤ちゃんは「ニコリ」ともしません。ポカンと私を見ています。

あれれ?


私はちょっとだけ立ち位置を変えて、仲間たちと話しながら赤ちゃんとも関われるところに立ちました。


仲間ともおしゃべりに興じながら、赤ちゃんに話しかけます。

「かわいいな」「ちっちゃいですね」「カバンの中は汗臭いだけだよー」仲間も、赤ちゃんを少しでも輪に入れようと場を作ります。

赤ちゃんはこちらに関心を示しますが、感情の表出がありません。

「でっかいオッサンの一団に変な着物のおばさんだから、戸惑ってるんだよ」

それもそうですが。

どうしたのかなあ・・・。赤ん坊とお母さんの様子をちょっとだけ観察してみました。


お母さんは、膝の赤ちゃんをほったらかしにして、スマホに夢中です。

赤ちゃんが体を乗り出して、私たちの方に向かおうとすると、黙って赤ちゃんを連れ戻します。

目は、スマホのままです。


・・・? これだ!


大学や看護学校に

「スマホに子守をさせないで」というポスターが貼っています。


もちろん、それもとてつもなくマズイです。

でも、それと同じくらいかそれ以上にマズイのが、このお母さんの態度です。

心も身体も、スマホに奪われています。

赤ちゃんを引き戻す仕草は、「モノ」に対する動きと同じです。


人はなぜ人間とも言うのでしょう。

人は、人の間で育つのです。お母さんの膝の上でも育つし、知らない大人とのコミュニケーションでも育ちます。

あの赤ちゃんは、お母さんの膝の上にはいましたが、お母さんが関わろうとしていません。

関わってもらうことで、人は育つんです。

関心を持って触れられて、話しかけられて、初めて育ちます。


あーあ。

ため息をつきたくなります。

お母さん、赤ちゃんを見てくださいな。

お母さん、赤ちゃんに触れて話しかけてくださいな。

そう言いたいのを、グッとこらえて地下鉄を降りました。


最近の科学論文で「赤ん坊の大脳皮質は完成していない」というものがありました。

赤ん坊の大脳皮質(最も人間らしい行為を司る脳)は、生後、他の人との関わりの中で育つというのです。

もし、他の人ととの関わりがなかったら。

もし、一日の大半をスマホの画面を見て過ごしてたら。

もし、スマホに心を奪われた大人がその子のお世話をしたら。


全部同じ結果でしょう。

他人の心がよくわからない、場の空気が読めない、人と協調できない大人になりはしないか。

勉強はできても、人の心がわからない人がいます。

そういう人は、マニュアルにないことは対応できないし、それを要求されるととてつもなくストレスなのだそうです。

私が育った時代に、スマホがなくてよかったと思いますし、私が子育てをした時代にもスマホはありませんでした。

(私自身は、いまだガラケーの人間ですが(苦笑))。


「他人と共感できる能力」って実はとても大事です。


相手を見ようとしない共感能力の低い人は、武術でも遅れをとります。

相手と自分という関係性の中に、武術の極意があります。

(このことについては、またいつか書きましょう!)


そして、赤ん坊のときほど驚異的に成長することはできませんが、私たち大人も日々育っています。

諦めてしまえば終わりだし、諦めずに取り組めばまだまだ変わることができます。

護身術としても重要な、「共感能力」を、ともに育てていこうじゃないですか。





2017年9月のコラム 風通し良く生きる


新学期が始まりました。

ここ10年くらいの統計では、18歳以下の自殺の発生が一番多い日が年間を通じてこの9月1日ということで、警戒されています。


死なないでほしいと心から思いますが、私も「いじめられっ子」だったので、気持ちがよくわかります。

誰にも相談できないものなのです。

そして、もちろん、大人になっても人間関係のややこしさにはいつもがっかりさせられます。

がっかりするだけなら良いのですが、多くの方が精神的に参ってしまいます。自ら命を断つ方も少なくありません。


一方で、追い詰められて参ってしまった後に起こる殺人事件も、そうです。

殺人事件の加害者は、55パーセントが、「家族」だという統計が上がっていました。


どうして、逃げなかったのだろう?

死ぬくらいなら、学校に行かなければ良いじゃないか?

そう思うこともしばしばです。

でも、当事者にとっては、「逃げ場がない!」状況なんですね。

とても、わかります。


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生きるということは、他者とぶつかるということでもあります。

他者とぶつかることで、学び得るものも多いのですが、逆にそれがしんどくなったら・・・?


ブッシュマン(カラハリ砂漠のサンの人たち)と暮らした菅原和孝さんは、彼らほど平和な人たちはいないと言います。

なぜか。他者とうまくいかない状態になったら、すぐに立ち去るのです。そのことについて、『もし、みんながブッシュマンだったら』や『ブッシュマンとして生きる』の中に触れられています。


なんて自由で風通しのいい人たちなのだろうと、私は感銘を受けました。


人間関係に悩んだら、そっと立ち去る。

これは物理的にも、精神的にも・・・です。

それができたら、9月1日の自殺も、家族間の殺人も、減るのではないかと思うのです。

DVでもそうです。危ないと思えば、静かに立ち去る。

自分が怒って何かしそうだったら、相手が激昂しそうだったら、タイミングを計って離脱する。

誰かを殺したいくらい追い詰められたら、そこはもうあなたのいるべきところではありません。


この自由さは、他者に「よりかかる」ことでは達成できません。

普段から、「よりかからず」立つことができて初めて、人は自由を手に入れるのです。

「よりかからず」立つ意識で、いつでも立ち去ることができる風通しの良い関係でいましょう。

学校がホントに嫌ならやめればいい。

家族が負担なら、離れればいい。

(子どもは自分の力だけでは難しいこともあるので、大人がサポートしないといけないわけですが)。


風通しよく生きる。

よりかからないで、生きる。

きっと、日常の護身の極意の一つです。



2017年8月のコラム  敵を知り、己を知れば・・・


暑い日が続きます。皆さまは暑さと仲良くやっておられますか?
私はといえば、めったに引かない夏風邪を引いて悪戦苦闘しております。
「風邪は身体の掃除」と看破したのは、かの野口晴哉先生ですが、上手に経過しないとこんなにもしんどいのだなと、普段の不養生を反省しきりです。(とはいえ、まだ頭はぼーっとしていますが、だいぶ治りました。)門人の方には、不格好なところをお見せいたしました。
さてさて、巷では、「ヒアリ」や「ヤマカガシ」といった毒虫、毒蛇に話題集中ですね。
ヤマカガシは、当地ではニュースで言うような地味な風体をしておりません。赤い点々の入った、ちょっと見た目怖い感じの蛇です。でも、性格はだいたい温順、臆病でヒトを恐れますので、噛まれることはめったにありません。また、毒牙は口の奥のほうにありますので、指などを蛇の口に差し込まないと、毒牙に噛まれることは難しいと思われます。
私がこれを習ったのは、農学部獣医学科という特殊な環境で学ぶことができたから、かもしれませんが、その時の教授は「ちゃんと調べたら、怖くないだろう?」と笑っておられました。
今は時代が良くなって、調べようと思えば基本的な調査はネットでできます。(もちろんネットだけでは不十分ですが)。
知らないまま、おそれて騒ぐのは愚の骨頂です。
知らないから、恐ろしいのです。
スズメバチも、全員にアナフィラキシーショックが起こるわけではありません。
自分が、そういう体質なのかを知っておくことで、自分が守れます。もし、知らないとしても、アナフィラキシーショックの症状を理解しておけば、自分や他人が窮地に立つことを防げるでしょう。
知ること、知ろうとすることは、力なのです。
もう一点。
知らないと、おそれます。
おそれの心は排除を生みます。
同じような、安心できる同質の者だけで生きる世界は窮屈でしょう?
私はいろいろな人(生物)がいるほうがスリリングで面白いと思います。
そういう先生でも、「蚊」は殺しますよね?
以前そう突っ込まれました。大変困りました。
蚊取り線香の香りが好きだから・・・というのは、もう一つの理由ですが、どうしたものかと考えていました。
すると、座禅をされる方から、「しっかり最後まで血を吸わせると、そんなに痒くないですよ」と伺いました。
早速、実験してみました。
うちの蚊は、のんびりさんで、満血するまで7分ちょっとかかりましたが、その後、吸血痕は1時間ほど薄っすらと発赤しただけで、痒みもほとんどなく治癒しました。
これで、蚊を殺さずに済むかもしれません。
しかし、驚いたのは私が稽古会でこの話をしたとき、その場で蚊に吸血させて、蚊が離れるまで待った方がいたことです。
「先生、私も実験しました!」
「本当に痒くないですねえ」
彼女はニコニコしながら驚いていましたが、何よりも驚いたのは私自身です。
知ろうとする。知識を生きたものにするためにやってみる。
その行動指針を、彼女はなんのためらいもなくやって見せてくれました。
すばらしい。

知ろうとする心、やってみる行動力が、この夏、あなたを守ります!


2017年7月のコラム 運を良くする


空梅雨のようなお天気ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。降れば土砂降りですし、以前のジメジメジトジトの梅雨が若干懐かしくもあります。
さて、今月のコラムは、前期の学校での出来事から、皆さまとシェアしたいものを取り上げます。
私は、年間10校以上の学校で、様々な学生さんたちと出会います。
一人一人が、個性あふれる存在で、愛おしい人たちです。
少しでも、彼女たち、彼らの力になりたいと常々願っております。学生たちは様々なことに悩み、相談を持ち掛けてきますが、今回の相談はなかなか難題でした。
「せんせい! 私は、〇〇のコンサート(ライブ?)に行きたいけど、チケットが当選しないと行けないの。どうしたら運がよくなる?」
私は音楽に疎いので、〇〇と言われてもわかりませんが、ライブに行きたいという彼女の気持ちはひしひし感じます。
「運ねえ」
私自身、宝くじに当たったこともなければ、いわゆる懸賞で当たったこともありません(あるとすれば、子どものころ森永チョコボールの銀のエンゼルをコツコツ集めてオモチャの缶詰をゲットしたことくらいでしょうか。あれは、抽選ではないので、必ず景品がもらえる仕組みだと気付くまでしばらく大喜びしていたものでした)。
しかし、私は自分の運が悪いとは思っていません。困ったときには必ず何か(誰か)に助けられています。
どうしたら運が良くなるだろうか。
私はその学生にいくつかを示しました。
1.笑顔で過ごす。
2.感謝して過ごす。
3.他人に親切にする。
魔法のような解決法を期待していたらしい学生は、ちょっとがっかりした様子でしたが、「やってみます」と早速の笑顔で去っていきました。
それから3か月。
講義の終わりに「せんせい! チケット当選しました!」と彼女からの報告が。
「せんせい、私、これで今年の運を使いきったかもしれん」
・・・そういう彼女に私は言いました。
運は、貯金とは違うの。
使えば使うほどわき出るものなの。
どんどん使って、どんどんハッピーになって、どんどん周りもハッピーになるんだよ。
だから、運は使い切ることはないんだよ。
学生は目を輝かせて「じゃあ、言われた笑顔、感謝、親切を守ってれば、どんどん運が開けるんですね!?」と。
その通りです。
この話を、他の学校の学生たちにもシェアしたのですが、皆さん半信半疑。
しかし、この話を実行した人は、一握りもいないでしょう。
藁にも縋るつもりの状態のヒトなら、何でもやってみるかもしれませんが。
まずは実行してくれて、チケットを当てた彼女に拍手。
つまり、様々な情報の中で、実際にやるかどうかが運命の分かれ道だということなんです。
まずはやってみる。この姿勢が、運命を好転させますよ。
わかり切った運の改善法かもしれませんが、あなたも今日からやってみませんか。


2017年 6月のコラム 腹筋禁止


さてさて。薄着の季節になってきました。

会員さんが「お腹まわりが気になる」とおっしゃいます。


お腹と言えば、先生、腹筋でしょうか?


彼女は、「腹筋運動」のことを指しているのだと思いますが、多くの人もお腹の運動=腹筋運動だと思っておられると思います。

お腹の力で上半身を起こす運動、ですね。

確かに、腹筋運動をしてバリバリに割れた腹筋もカッコいいのですが、私の会で腹筋運動は推奨しません。

いや、むしろ禁止としたいところです。


なぜって?

腹部の筋肉(腹直筋、腹斜筋、腹横筋)は、何のためにある筋肉でしょう?

なぜ、腹直筋はああいうふうにいくつかの区画に分かれているのでしょうか。

答えは簡単です。腹部の筋肉は身体を曲げるためにあるのではなく、腹部の臓器が前に落ちないようにコルセットのように固定するためのものなのです。


ならば、腹部の筋肉には腹部の筋肉の仕事をさせてください。

普段だらっとしていて、腹筋運動で腹部の筋肉を使うとどうなるでしょうか。

身体を曲げるのに、(もしくは身体を起こすときに)、腹筋を使うようになります。

身体を起こすのに、腹筋は要りません。

腹筋なしで、身体を起こすことをしてみると、それが実に合理的で楽な動きかわかります。

腹筋運動に慣れた身体は、必要のないところで腹筋運動のような動きをしようとします。

それは、身体的にはシンドイ動きで、腰にも負担をかけます。


だから腹筋運動はしないでくださいと、私は言うのですが・・・。


それでも、あのコマーシャルのような身体にあこがれる?

痩せるのは、運動ではなく、食事が肝心ですよ。

私は腹筋運動の非合理性を理解してから、あのような腹筋の割れたバキバキの身体には興味がなくなってしまいました。


百獣の王ライオンも、動物たちは腹筋運動はしません。

見せる身体ではなく、動ける身体。

それも、「楽に動ける身体」を目指しませんか?

そして、実際には楽に動ける身体のほうが、美しいかもしれません。



2017年 5月のコラム 限界を知る


皆さま、美しい5月の連休をいかがお過ごしでしょうか。


さて、今日は学生さんたちによく聞かれることをご紹介していきましょう。

とんなことを聞かれるのでしょうか。


「せんせい! 学生時代に必ずやっておくとよいことがありますか?」

「しておくと良いことがあれば、教えてください!」


そうですね。勉強でも運動でも日々の心がけでも、やっておくと良いことはたくさんありますね。

でも、一つだけだとしたら、私は「限界を知っておいてね」と言います。

どこまでなら自分でやれるのか。自分は何ができて、何ができないのか。

そういうことを知っておいてほしいと言います。


たとえば。

今のあなたの服装で、靴で、装備で、一時間にどのくらい歩けますか。

一時間歩いたあとの身体の感じはどうですか? 毎日そのくらいは平気ですか?

食事をしないでどのくらい動けますか。

一日に飲んでる水はどのくらいですか?(危険なので、水なし耐久レースはやらないでください)。

風呂に入らずに、どの程度我慢できますか? 髪を洗わずにどのくらい持ちますか?

洗面器一杯の水で身体が洗えますか? 二杯ならどうですか?

どこでも眠れますか? 眠るのに何が必要ですか?

睡眠時間はどの程度削れますか?


できなくてもいいんです。

できないことを知っておくことが大事です。

ぜんぜん歩けませんでしたでも、いいんです。

時間のあるときに、どのくらい自分が「できないのか」を試してみて下さい。


「三食食べなかったら動けない」

「この枕がないとダメだ」みたいな先入観は捨ててください。


私たちの身体は、かなり融通がきくように出来てます。

そして、何かあった時に何ができるか、何ができないかを知っておくのはとても役に立ちます。

特殊部隊の人たちみたいに、自分ひとりでサバイバルをする必要はありません。

でも、誰かを助けたいと思っても、自分の能力を知らないと、逆に迷惑をかけてしまいます。

私は真の自立とは、「自分ができないときに、きちんと助けを求める能力があること」だと思っています。


人助けの話には目を輝かせる学生さんたちも、自分の能力を知る、限界を知るという話になると、ちょっと腰が引けてしまいます。

人を助ける前にやらねばならないことを、肝に銘じてください。

人を助けるためには、自分がきちんと立てていること。(これは、精神的にも、肉体的にもです)。

そして、自分の能力をよく知っておくこと。

能力の多寡にかかわらず、できることは、たくさんあります。


学生さんでないあなたにも、何かヒントになりませんか?





2017年4月のコラム 目指す身体


一つ質問です。

どんな身体を目指していますか?


 え? そんなの当たり前でしょ。健康な身体ですよ。


そういう答えが返ってきそうですね。

じゃあ、聞き直します。「健康な身体」ってどんなですか??


からだ塾とは無縁の某所では、「病気じゃない、怪我をしていない身体!」と即答が返ってきました。


私はさらに聞きます。

 病気をしたらダメなの?

 怪我したらダメなの?


その方は、そんなこともわからないのかと呆れ顔で「ダメです」とおっしゃいました。


私は、心の中で軽くため息をつきました。


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生きている限り、病気しないことはないでしょう。怪我をすることもあるでしょう。

年齢を重ねれば、どこか痛むこともあるのが人生です。

それを排除して生きる、健康のために「無理をしないで安全第一で生きる」ことは、人生を丸ごと生きていると言えるでしょうか。

私たちは、健康のために人生を生きているわけではないんです。

無茶もする、馬鹿もする、無理もする。

怪我もする、病気もする。


それでも、私は健康であると言いたいのです。

怪我をした身体、病気の身体丸ごと、受け止めていくのが健康ではないかと。

身体の声を聞けること、身体を丸ごと受け入れることは、怪我していても、病気していても可能ではないでしょうか。

辛いこと、しんどいことも含めて、私の身体で、私の心です。


私たちが目指す身体は、怪我をしない(してない)身体でもないし、病気をしない(してない)身体でもありません。

もちろん、身体の使い方を学ぶことで怪我を減らす、病気を減らすことはできます。

しかし、いったん怪我をした、病気をしたと思ったら、身体からのお手紙です。

深く感じてほしい。


健康と病気を対立させる必要はない。

かの野口晴哉先生も、そうおっしゃっています。


敏感な弾力のある身体、できることを喜ぶ身体。

そして、痛みを聞ける敏感なこころ。

悲しいことも、辛いこともきちんと感じることのできる素直なこころと身体。

開かれた身体と、開かれたこころ。


自分の老いていく身体と、真正面から向き合うことも重要ではないかと思います。

老いていく身体を感じること。(老いることは、衰えることとは違います! 老いは挫折ではありません。)

そして、意外なことにどんなに年齢を重ねても、身体は変わります。

こころも変わります。

もちろん、どんな身体を目指すか。人それぞれで良いと思います。

それに向けて、いくつになっても変わるのです。



あなたは、どんな身体を目指しますか?


2017年3月のコラム 他人任せにしない


稽古会では、感覚トレーニングをやります。基本は一人で自分のからだを感じてもらうことです。感覚の稽古です。どこまでが自分で、自分の足、自分の指がどこにどのようにあるのか。足の中指を感覚してくださいと言われて、すぐに意識が行く人は今までほとんどいません。


自分のからだでありながら、足指は全部5本でまとめてざっくりと「足指」で、指の一つ一つが分かれていません。さらに背中も肩も腰も、感覚することが大変難しい部位です。


巷にあふれるマッサージや、整体、エステに通い続けた方がおっしゃいます。


腕の良い先生を見つけても、結局その場だけで「治らない」のです。


通えば治る。治っている間はいいんだけど、またすぐ痛む。


そうでしょうね。腕の良い治療者がいるとなると、無理をしても大丈夫、少々乱暴な使い方をしても大丈夫ってなりますよね。なんせ、すごい先生がついているんですから。治してもらい続けなければなりませんね。それでよいという人もおられますから、私はそれでも良いと思います。


しかし、ここ、からだ塾では、その方向とは真逆を行きます。自分のからだを自分で感じ、自分のからだと対話し、自分のからだと治癒力を育てるのです。


あなた任せ・・・では、自分の感覚する力、治す力が生まれてきません。


痛みは大切な情報です。からだからのお手紙なんです。


それをしっかり読んで、そうかそうか、その使い方は嫌なんだね、ごめんね。次はこうやってみるねと、からだと話し合わなければ、お手紙を生かすことはできません。


もちろん、今までからだと対話したことのない人に「はい、感覚してください」と言っても無理です。ですから、他人に触れてもらったり、言葉をかけてもらったりして、手助けがあるとよいのですが、それはあくまでも補助です。


主体は自分であること。他人に任せないこと。


どうでしょうか。できることは自分でする。手助けが欲しければ、手助けを頼む。真剣に自分のからだに向き合う。もちろん、手助けをする相手にも真剣に向き合うのです。


そのことは「からだ」の問題にとどまりません。もし、あなたが、自分自身と向き合い、他人任せにしない意識を持ち続けて真摯に生活するなら、あなたの人生が変わるでしょう。からだが変われば心が変わる。すべてが変わります。





2017年2月のコラム  身体にまかせる

私たちの稽古会では、身体を感じる力が大切だと考えています。。

そもそもの足の指はどうだったか、どのように地面を感じるか。

そして、身体に良い動き、ほぐし、ストレッチ、姿勢などをシェアしています。


その時、私は必ず皆さんに言うことがあります。


「毎日やってはだめですよ」


多くの方が、「毎日やってください」と言われるのではないかと思っていたらしく、ポカンとして「どうしてですか?」 と聞きます。


毎日やるって、どういうことでしょうか。

毎日やると決めたらやるんです・・・ですか? だれが決めましたか? あなたですか? あなたの頭ですか?


頭です。


ひとしきり首をひねってから、皆さんおっしゃいます。その通り。頭ですね。意志であると言っても過言ではないでしょうね。


それはしないでほしいのです。歯を食いしばって、がんばる・・・、決めたことだから、最後までやる・・・、毎日しなくちゃいけないのだから・・・という心が、身体を見えなくしてしまいます。


私たちの会では、「身体がどう変わったか?」フィードバックをかけていきます。一週間に一度であっても、この使い方なら楽ちんだとか、安定した!?  みたいな身体感覚を味わっていただいています。それを家でやりたいと言って下さるのは本当に嬉しいことですが、義務にしないでほしいのです。

つまり、「楽だからやる」「やりたいからやる」ということなら、やってほしいのです。結果として、毎日やっちゃったけど、別に毎日やろうとは思わなかったのにね、というのなら、正解です。「毎日やる」と決めたからやるのはダメ。

人の身体の内在する力、自発力といいますか、身体がやりたいという声をきちんと聴けなければ、身体との対話はうまく行きません。


私は若いときは、一日何キロ歩いて、柔軟体操を何分何セットやって、素振りを何回、筋トレをジムでやって、道場で稽古して・・・と、スケジュールをびっちりと組んで、頭の指示に従ってトレーニングをしていました。何が起こるか。短期的には身体は作れます。しかし、長期的には身体の声を聞かず無理をして股関節と膝関節をすっかり壊してしまいました。もう空手はできない、ハイキックはできない・・・そういう絶望の中で、身体とどう付き合うかを考えて、今があります。(今は、できる範囲で空手を続けています)。


身体がやりたくないときは、やらない。

身体がやりたくないことをやらない。

素直に、身体の声を聞く。


え? 「休みたい」って声しか聞こえてこない?


じゃあ、じっくりしっかり休んでください。休んで休んで、動きたいという声が聞こえたら立ち上がる。

まずは、そこからです。

身体の声を無視しない。本当にやりたい、本当に動きたいというのを感じる。

どの動きならば、姿勢なら身体が喜ぶでしょうか。(稽古会にはそれらのヒントがあります)。

頭の命令で身体を動かすことをちょっとやめてみてください。

そこから、身体の声を聞きましょう!!



2017年 1月のコラム 目に見えないこと 1

新年が明けました。

初詣に行かれた方も多いのではないかと思います。

私たちの会では、「目に見えないこと」について、色々とお話することも多いのです。

目に見えなくても、感じることはありますし、目に見えなくても、感じなくても「ある」ものはある・・・かもしれません。

確信をもって言えないだけで、そこに「ない」と言うことはできません。(ちょっと哲学的命題ですね)。


私は科学的少女でしたから、「目に見えないものは信じない」「感じられないものは存在しない」と断じて恐れない子どもでした。

死んだら終わりだし、死体はモノだし、神社や寺、教会といった建造物が好きではありませんでした。

神仏もいないし、鬼も妖怪もいない。祈っても叶わないことばかりだし、呪っても何もおこらない。


そういう考えが大きく変わるのはいつ頃だったでしょうか。

幽霊をみたわけでもないし、神の声を聞いたわけでもありません。

ただ、目に見えないものを許容する世界のほうが豊かだなあと、感じたのです。

きっかけがアフリカ在住だったか、沖縄を旅したことか、親しい先生を見送ったことかはわかりません。

鈍い私は、いまだかつてそういう第六感的な経験はまったくありません。


それから、勉強をすればするほど、「人知でわかっていることはたったのこれだけか」ということを思い知りました。

ソクラテスの「無知の知」の認識かもしれません。大いなる自然世界の持っている英知や智慧は私たちの解明を拒んでいます。

その英知を「目に見えないもの」として、わずかでも捉えることができるなら、それは有用な知の在り方ではないでしょうか。

何もかも闇雲に信じるのではない。明らかに否定できるものでない限り、それを信じてみる。

私たちが、最初に行う実験もそういうものです。目に見えない力が、私たちの身体に作用するのです。

それを「バカバカしい」「トリックだ」というのは、簡単です。

かつて、トリックとして同じことができると請け負った人もいましたが、トリックで同じことができるとしても、何の意味もありません。

そういうことをしているのではないことをご理解いただければと思います。


理屈はよくわからないけど、なにかがあるよね。

そこから全てが始まります。

身体の可能性の、ほんのわずかなヒントがそこにあります。

きっと、数年後、数十年後にはこれらの現象も科学として解明されるかもしれません。

解明されるのを待っている必要はないし、時間もありません。


ただ、信じてやってみる。

それの有用性を感じる。(有用でないと感じれば、辞めたらよいのです)。

それだけで身体の可能性が開くとしたら、なんて簡単なことでしょうか。

目に見えないものを、ちょっと信じてみて下さい。