今月のコラム
この欄では、毎月気付いてほしいこと、気にしてほしいことについて一テーマ毎月書いていきます。
ぜひ取り組んでみてください。
2021年8月のコラム 希望と生きるということ
2021年7月のコラム 今、スポーツを考える
すっかり暑くなりました。土砂災害も起こっているようです。皆さん、息災でしょうか。
最近見た医師のつぶやきに、次のようなものがありました。
「糖尿病の患者さんの状態がメチャクチャ良くなってて、理由を聞いたら任天堂のスイッチというゲーム機で身体を動かすゲームをしていると言われた。医療は任天堂に勝てないのか・・・。」
「腰痛の患者さん。急に良くなったというので、理由を聞いたら孫とリングフィットアドベンチャーをしているという。それだけで全然違うらしい。ありがとう任天堂!」
ゲームが好きな私は、思わずニヤリとしましたね。もちろん、私もスイッチ持ってますよ。楽しいですよね(最近なかなかやる暇がないですけど)。そして、その患者さんが嫌々ながらやってないのが良いですよね。病気を治すためじゃなくて、「楽しいから運動した」⇒結果、色々治った! ってことですね。医師じゃなくても、本当に嬉しくなります。
皆、スポーツお好きですよね。運動音痴で体育が苦手な子どもだった私には、それが不思議でたまりませんでした。
ニュースにはスポーツのコーナーがあり、スポーツ新聞があり、普通の新聞にもスポーツ欄があります。同じように、音楽新聞があるかというとないし、文芸や演劇、アート活動についてのニュースはほとんどありません。
最たるものは、オリンピックですね。なぜ、国を代表してスポーツをするのか。
今は私もスポーツが好きです。けれど、それは「見る」ものではなく「やる」場合です。正直に言うと、「見る」のはあまり好きではありません。
子どもの頃の違和感がよみがえってきます。
子どもの頃、優れた身体能力のスポーツ選手たちの技を見て、「私とは違う」「私にはできない」という諦めに似た気持ちになりました。そうでなくても、クラスの明るい運動神経抜群の子どもたちと比べられて、肩身の狭い思いをしていました。同じ人間なのだから、私にも可能性がある・・・とは思えませんでした。完全に自分と切り離して、はじめてスポーツ観戦ができるようになりました。(それでも、今でも身体の使い方のヒントはないかと目を皿のようにして見てしまいます)。
常にクラスメイトたちと比べられた私は、大人になるまで運動もスポーツも嫌いでした。
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空手と出会った後に、さらに私を変えたのは、アフリカの体験です。
ケニアの奥地で、子どもたちと過ごしました。
子どもたちは学校に行きません(当時、学校に行く子は殆どいません)。家の手伝いをして、空いた時間を友達と遊びます。その遊びを観察していて、不思議だなあと見てたことがあります。
子どもたちは、身体を動かすのが大好きなのです。家の手伝いで、水を運び、山羊を追い、歩き回っているはずなのですが、手頃な岩を見つけてそこから何度も飛び降りたり、動物を追って走り回ったりしていました。体育の授業が嫌いだった私は、何もワザワザ身体を動かさなくても・・・と思ってみていましたが、誘われて一緒に飛び跳ねたり(流石に走るのは彼ら彼女らのほうがメチャクチャ速かったですね)岩に登ったりしました。
そこで、わかったのは、「フーン、ヒトは動くの好きなんだ」ということでした。
比べられるからイヤなんですよね。本当は動くの、好きなんですよね。
私は今でも不思議です。運動が嫌いな人がいる。運動が苦痛な人がいる。見るのは良いけど・・・という人がいる。
だから、何かきっかけがあれば、任天堂のゲームにもすぐ嵌まっちゃう。そういうきっかけになるなら、オリンピックも良いかなと思うけど、たぶんなりませんよね。今までも、多くのスポーツイベントがありましたけど、「見せる」スポーツとして発展してますよね
スポーツって、自分でやらなければおもしろさがわからない。比べられるのはイヤだ。負けるのはイヤだ。下手くそなのはイヤだ。
だから、「見て」満足してるように、私には見える。
スポーツが、逆の効果を生み出すんです。見てるから、やったような気分になる。
見て満足してしまう。「やる」までの距離が無限に伸びる。
スポーツイベントって、そういう意味では罪深いかもしれません。
「見る」スポーツから「やる」スポーツへ変えてきませんか。身体の不調を治すためじゃなくて、楽しいからやる!
楽しいですよ。労働でもなく、国の誇りをかけて競争するのでもなく、ただ動かしたいから動く。ちょっと身近な人と、相撲をとってみましょう。今隣に人がいるなら、かけっこしてみるのも楽しいかも。音楽に合わせて踊るのも、素敵ですね。
スポーツを楽しむ・・・という言葉が、自らの身体を通して実感できる文化が生まれますように。
2021年6月のコラム 他人と比べないということ
またしても、コラムが遅れてしまいました。
前期(4月~9月)は、何かとバタバタしておりますので、お許しください。
さて、私は今身体操作や武術について日々考えたり稽古したりする毎日を送ってますが、子どものころは全然運動のできない子どもでした。体育の成績は1か2(五段階評価で5が一番良い評価です)。跳び箱は一段も跳べないし、逆上がりができない、走ればドベ(福岡の言葉で、一番最後ってことです)。運動部に所属したこともなく、運動らしい運動をしたことがありません。そもそも「女の子は体育などできなくてよい」という方針の親でしたから、それでも別に気にしていませんでした。
高校時代、誰か友人に借りた『空手バカ一代』というマンガがありました。ワクワクして夢中になって読みました。親に空手を習いたいと言ったら「女の子はそんなことをしなくてよい」と一蹴されてしまいました。
ですから、大学進学と同時に一人暮らしを始めてすぐに道場を探しました。『空手バカ一代』は極真会館の話ですから、まず極真を探していたのですがご縁がなく、極真から分派した芦原会館に入門することになりました。(実際には『空手バカ一代』後半の主人公は芦原英幸先生ですから、芦原会館でも良いのです!)当時、フルコンタクト空手と言って、実際に当てる空手に女性はほとんどいませんでした。(正確には山口道場には一人女性がおられたのですが、私が入門してすぐに門下生と結婚してやめてしまいました)。
今思うと、それが良かったのかなと思います。当時の道場は、ほとんどが警察官や自衛官、趣味で筋トレをしているような身体の大きい男性であふれていました。そこに、やせっぽちのチビの女子大生がポツンと入ったんですから、対応に困りますね。当時は私は痩せてたんですね。さらに極端に筋力もなく瞬発力も持久力もない状態でしたが「女性だからしかたないか」と思われていたのだと思います。
私も他に比べる人もいませんから、「男性はすごいなー。腕立て伏せ100回楽勝なのかー」と自分は10回くらいでへとへとになっているのは仕方ないやと思いながら見ていました。
もちろん、空手は大好きですから、一生懸命取り組みました。筋肉はすぐにつきませんし、瞬発力などは今でもたぶん平均以下ですが、徐々に色々できるようになりました。本当に生まれて初めて「体を動かすのは楽しい!」と思えた経験でした。
今思えば、そのとき、同じ道場に体育会系でバリバリの女性がいたら続いたろうか...と考えます。だって、比べたら自分の才能のなさにがっかりです。当時、道場の人たちは「女性だから仕方ないね」とへなちょこ空手の私を、温かく見守ってくれました。他人と比べられなかったからだと思います。
その時の経験は、今でも生きています。
比べないからこその、楽しさは、今でも私の中にあります。先輩たちは「○○さんはできるのに、あなたはできないね」とう比較をしなかったから、純粋に過去の自分自身と比べての成長を喜ぶことができました。比べるのは自分自身です。スタート地点がものすごく低いので、何をしても最初はできないし、上手になるのもものすごく時間がかかりますが、指導者について素直に稽古すれば上達するのだなあと感動しました。
翻って、高校時代バリバリの運動部の人たちが、今バリバリやってるかというとそうでもないようです。
私などは「なんともったいない!!」と思ってしまうのですが、彼ら(彼女ら)は、十分にやったから良いと満足してしまっているのかもしれません。
一部の人がトップを目指して試合や大会に頑張るのは良いことだと思います。
でも、そうやって頑張った人たちの多くが、年齢を理由に「引退」してしまいます。
私は「引退」という言葉を使いたくありません。
身体を使う限り、身体から「引退」することはイコール身体を使わないということです。
身体を使わないで生きられるかというと、QOL(Quality of Life=生活の質、生命の質)は落ちるでしょう。
他人と比べるのはやめて、自分自身と向き合う。そのとき身体は必ずあなたの思いに応じてくれます。
少しずつ、過去の自分の身体から変わっていくのです。何歳でも変わります。
他人と比べて頑張るのは、ちょっとお休みしませんか?
からだ塾では、身体と自分と向き合う時間を提供します。
2021年5月のコラム 「初心者」ということ
ステイホームのGWが終わりました。
皆さんはどのように過ごされましたか?
私は、幸い体育館や武道館が空いていたので、ひたすらの稽古でした。稽古歴の浅いなぎなたや杖のお稽古に明け暮れ、「初心者」を満喫しました。
皆さん、初心者のころを覚えていますか?
立ったり、歩いたり、今は当たり前にやってますが、私たちは身体に関してずっと前は初心者でしたね。それが、いつのまにか当たり前にできるようになって、無意識にやってしまいます。何年も歩いて、何年も立って、私たちは身体操作のベテランになったでしょうか?
私は皆さんが身体のベテランとは思いません。私もベテランではありません。
少し皆さんより見えることがあるかもしれません。実際、スーパーや銀行など人の集まるところで、人々の動きを観察していて思うことは、「ああ、あの重心移動だと靴底があんな風に削れるよねえ」とか「あの方は、肩が凝ってるんだろうなあ」などなどです。初心のころは、丁寧にゆっくり気を付けて動いていた私たちが、雑に無駄に動いた結果が、年齢とともに色々な不調であらわれるのですね。
ほんの少しのヒントで、身体操作は見違えるように良くなります。
最近私が学生たちに言うことは「坐骨で座れ」です。
どうしたら、疲れないで座っていられるでしょうか。赤ん坊のころはきっとバランスを取りながらがんばって座っていました。筋力がつくにつれ、どうしたって座れるし、バランスなど気にしなくなってしまったのではないですか? もう一度、初心に戻って、バランスや無駄のない姿勢を気にしてみませんか。このことは、「座る」という身体操作に限ったことではありません。立つ、座る、歩く、しゃがむ、走る、跳ねる。どうしたら丁寧に動けるだろうか、楽に無駄なく動けるでしょうか。
赤ん坊が身近におられる方は、ぜひ、赤ん坊や小さい子どもの動きを見てください。ヒントがあります。
もう一つのヒントは、「初心者」になることです。
新しい競技や身体操作をするとき、私たちは「意識して」動作を操作しなくてはならなくなります。無意識に雑に動けないわけです。踊りでもスポーツでも同じです。今までやったことのない動き、両腕の協調、脚と胴体の連結、力加減。初心者はすべて意識しなくては動けません。できるかできないか...ではなく、意識して動く、意識して身体を使うという意味で、「初心者になる」ということは本当に勉強になります。
無意識に動かしている身体をいったん捨てて、自分の動きの癖を放棄して(我を捨てて)、新しく身体の動きを作り上げるわけです。そのたびに、身体は生まれ変わります!
スポーツや武術、踊り(ダンス)、歌うことや楽器演奏。それらの身体を使う活動で「初心者」であることは、本当に楽しく勉強になります。上達の喜びはもちろん、自分自身が自分の身体を操作しきれない、意識して動けていないということを思い知らされます。(あ、もちろん、天才と言われる人たちは別ですよ。彼らははどの分野でも存在して「一目見れば、同じように動ける」というとんでもない才能をお持ちです。今は、私とあまり変わらないであろう凡才の人に向けて書いていますよ)。
年齢が上になって、長生きして、本当は身体運動のベテランになっていなくてはならないのに、そうでないよね~と思われる方、ぜひ赤ん坊や子どもたちと交流して彼らの動きから初心のころの動きを学んでください。そして、何か一つでも良いので、身体を使う活動を始めてみてください。初心者になりましょう。身体がいかに意識できていないか、操作できていないかを知って、自分の我を捨ててチャレンジしてみましょう。
きっと、「肩こりがなくなった」とか「運動不足解消!」以上の、身体への気付きが待っています。
春は何かを始めるのに大変良い季節でもあります。
コロナはまだ心配ですが、嘆いていても始まりません。コロナ禍でも、やれることはいっぱいあります。
初心者になって、新しい世界を見つけて、新しい自分の身体を見つけましょう!!
2021年4月のコラム 武道の本番
暖かくなりましたね。今年は桜も早く、当地では既に散り始めました。相変わらず、コロナの話題が絶えませんが皆様お元気ですか?
さて、今日は護身術についてです。
からだ塾でも一応(?)護身術を標榜しておりますが、護身術とは一体なんでしょうか。
身を守るすべ、暴力から身を守るためのもの・・・でしょうか。原則として、まず自分自身が災難に遭わない、遭ったとしても大難を小難に変える技術のことを、私は護身術としています。そのために、何をするかですが、叩いたり蹴ったり、組み合ったりという技術を磨くだけではありません。(それらも大事と思いますが・・・。コロナ禍ですし距離が近い稽古はまた来年以降ですね)。
一週間に一度、身体の総点検をして有事に備えましょうというのが、私の考える武道・武術(護身術)です。
古流の武術では、準備体操をしないところがあります。私の知っているあるところでは「準備体操禁止」となっていました。勝手に準備体操していた新人が出入り禁止になったという恐ろしい噂もありました。
なぜ、準備体操をしてはいけないか? わかりますか。(しない方が良いということではなく、「してはいけない」のです)。
武術というのは、いつどこで使われるかわかりません。いつ、襲われるかわかりません。常在戦場なら、準備体操している暇などあるわけがありません。いつでもどこでも対応できるように準備体操をしないで、すぐに本番に入れるようにしなさいという教えであると思っています。つまり、日々の暮らしの中でいついかなる場合でも思うように身体を使えるように、稽古の中ではなく日々の生活の中で実践しなさいよという教えです。
私は当初は、準備体操をしないでいきなり動くなんて、乱暴だなあ・・・現代では通用しないよと思っていましたが、歳を取って武道武術の目的ともう一度対峙するようになって、なるほどと思うようになりました。
若いときは、段位を上げたい、試合や大会で勝ちたいという欲が優先します。もちろんそれも大事なことですが、それではスポーツと変わらないなと思います。スポーツを馬鹿にするわけではありませんが、スポーツとは明確に目的が違います。
スポーツの本番は、大会や試合でしょう。
武道武術の本番は、何でしょうか。
それがまさに「護身」だと思うわけです。
ですから、試合や稽古で相手に負けても良いと私は言います。本番では負けるな! 本番で、もし自分がピンチに陥ったら、絶対に諦めるなと言います。
私は子どもたちに空手も指導していますが、そう言うと子どもたちは「本番?」と怪訝な顔をします。(大人はわかったような顔をしますが)。
武道の本番はいつでしょうか? 実際に暴漢に絡まれたときでしょうか。
昔読んだ漫画の中に、こういう台詞がありました。
「合気道の本番は、生まれてから死ぬまで」(『EVIL HEART』(武富智著、集英社)
合気道を武道に読み替えるとわかりやすいですね。(注1)
スポーツとは違い、武道の(武術の)本番は、自分が生きているその間ずっとなんです。
暴漢と戦うのも本番かもしれませんし、クラスにいじめがあればそれに気づき勇気を持ってやめるように言うのも本番かもしれません。誰かの尊厳が脅かされたらきちんとそれに異議を唱え、立場の弱い者を守るのも本番かもしれません。誰かに隷属せず(させず)、暴力に屈せず(暴力で屈させず)生きることのために稽古していると思います。(これが封建社会であれば、「主君のため」となるところですが。現代社会では「平和と友愛のため」とすることに異論のある人は滅多に居ないでしょう)。
そう考えると、武道の(武術の)本番はまさに生まれてから死ぬまでだと良く分かります。
だから普段の生活がすぐに稽古なのです。日常で動きやすい身体、心を作り上げる。
そのために時々集まって、身体の(心の)点検をする・・・。これが私の護身術であり、からだ塾での実践です。
普段の生活での身体操作に気をつけてみましょう。心の癖に気づきましょう。
本番は生まれてから死ぬまで・・・です!
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(注1)『EVIL HEART』は異色の合気道漫画でした。試合がない合気道を青年向けの漫画にしたのも凄いですし、試合がないゆえに武道の本質について作者と共に考えることのできる深い作品です。
2021年3月のコラム 「稽古」をするということ
皆さんこんにちは!
昨日は啓蟄でした。昔の人はよく言ったもので、虫たちが冬眠から目覚めて活動しはじめる頃という意味ですが、今、私の目の前をメマトイがふらふらと飛んでいます。(メマトイは眼の周りを良く飛ぶ小さいハエの仲間です。)
さて、皆さん「稽古」という言葉をどう思いますか?
私たちも「稽古会」であって「練習会」ではありません。稽古と練習は違うのです。
稽古という言葉は、調べてみると「古(いにしえ)を考える(稽古の稽は、考えるという意味だそうです)」という意味です。古くは古事記に「稽古照今」という言葉があるそうです。古くを考え、今を照らす・・・ですね。先人の知恵、「いにしえ」の知恵を考えることを通して「今」を生きる。そういう意味が「稽古」という言葉にはあります。
それは、まず、物理として身体技法の話の側面の話です。
日本人の身体技法は、明治維新と第二次世界大戦の敗戦という二つの局面において大きく転換を強いられました。武術や武道も江戸から明治へ、敗戦後の武道禁止令等で多きな転換を遂げました。私たちの身体技法は、忘れ去られたいにしえの先人のものの上に、近代社会的な合理的な動き(明治維新によって体育が軍隊の軍事教練に端を発したことは有名です)が接ぎ木されていくわけです。
私がやりたいのは、その接ぎ木されたちぐはくな動きを、「稽古する(古を考える)」ことで是正してくことです。もちろん、私だけがそのような取り組みをしているわけではありません。多くの先生方が、すでに道を示して下さっています。それらの武道の(武術の)知恵がありますから、そこから考え学ぶのです。
「私」という存在は、単独ではありません。歴史があり場があり関係性の中で育ちます。一匹狼であろうと、一人が好きだろうと、歴史の連続性から逃れることはありません。私たちの身体作法は、常に先人から受け継がれ次の人々に手渡されていきます。その歴史的身体性に意識的になるのが、「稽古」です。
古を考える。
太古の昔から続いていて、今ここにいて、そして未来へ。
でも、現代は時間の流れが早く、古を振り返る余裕なんてないかもしれませんね。
一つ提案して、今月のコラムを終えましょう。
3月6日現在、昨日の3月5日は、啓蟄でした。(そして、書き終えたのが7日ですが・・・(苦笑))。
旧暦や二十四節気を意識してみませんか?
私は立春を年の初めとして、自分のために設定しています。
そして、二十四節気を常に意識しています。
先人が残してくれた季節を生きる知恵だと思うのです。
虫が穴蔵から出てくる、春。私たちも、(コロナ感染拡大防止という使命はありますが)、少しばかり外に出て行きませんか? そういう季節です。外へ眼を向けてみましょう!
2021年2月のコラム コロナから考えること
2021年1月のコラム コロナ禍と、生きて死ぬということ。
コロナが収束しないまま、新年が明けました。
明けましておめでとうございます。生きている限り時間は進むし、私たちは歳を取り老いて死に近づきます。
2020年ほど、「病」や「死」について考えさせられた年はなかったのではないでしょうか。もうこりごりと、思っている人も多いでしょう。四月のコラムで、「スペイン風邪は3年で収束」と書きました。コロナは何年でしょうか。私は収束というのはないのではないかと思います。100年前のスペイン風邪のときは、世界の人口は現在の4分の1でした。交通も今のように発達していません。人口が増え、ぎゅうぎゅう詰めの世界ではたとえコロナが収束しても、第二第三のコロナが待っています。(事実、私は高病原性鳥インフルエンザのヒトヒト感染によるパンデミックが先だと思っていました。)
構造的な問題がなくならない限り、この感染症の連鎖は続きます。悲観しているわけではありません。生物学としてはそれが事実であろうと思います。ワクチンができようと問題は変わりません。(ワクチンは万能ではありません。こと、コロナウイルスなどのRNAウイルスに関しては! 人類が殲滅できたのは後にも先にも天然痘だけです。殲滅という言葉も好きではありませんが)。
人口が増えれば? 減れば? という問題はここで置いておくとして(個人ではどうしようもないですから)、私がお伝えしたいのは、「皆死ぬ存在ですよ」ということです。当たり前かもしれませんが、当たり前ですか? 私たちは、「明日も自分が生きている」という設定で動いています。しかし、そのことは宝くじの一等に当たるよりも不確実です。(宝くじの一等は雷に打たれて死ぬ確率よりも桁違いに低いのだそうです)。
確かに医療が進歩して、感染症で死ぬ人は減りました。しかし、人間は必ず死にます。必ずです。現代文明は「病」や「死」を日常から遠ざけて発展してきました。「病」や「死」を仇にして、できる限り触れないようにして、私たちは過ごしています。そこにこのコロナです。
私はこのコロナをきっかけに、「病」と「死」について深く考えることが、深く感じることができるのではないかと思うのです。「病」を診る病院がひっ迫しているというなら、病院をサポートするシステムを作らねばならないのに、「ありがとう」なんていう言葉を空疎に垂れ流している場合じゃありません。自分の身近に「病」があるならそこから目を逸らさず、ひとたび「病」を得れば実感としての「生」を見直すことができるのではないでしょうか。ただ健康に戻ることを念ずるのではなく、「病」の意味を考えてほしいのです。健康な人間を中心に作り上げられた世界で、「病」を得た人間の価値は何でしょう。「病」があってもなくても、我々は人間です。人間として遇していくことを、ないがしろにしていませんか? 健康でない人間は二級市民ですか? もし、「死」が迫っているならば、残りの時間の意味は? 苦しみたくない、痛みたくないとは思いますが、それらに意味はないのでしょうか?
今「病」を得てない私も考えることが多いです。私もコロナで経済的に打撃がありました。でも、私の比でないくらい多くの人が苦境に立ち、自ら死を選ぶ世の中です。そういう人を助けないで、何が人間社会でしょうか。国家は何のためにあるのでしょうか。
今までの価値観が揺さぶられているのではないかと思います。人間社会に重い問いを突き付けているのではないかと思います。
新年早々、こんな暗い話で申し訳ありません。
しかし、コロナに勝負を挑むでもなく、コロナを敵にするでなく、我々はウイルスとともにあり、感染症とともにある生物であることを心に刻んで、「より良く」生きていく(そして死ぬ)こと。これを目標として、ノビノビとワクワクして日々を過ごしていきたいと思います。
いつか終わりの日まで!
今年もよろしくお願いします(^^)/