2018年のコラム


2018年12月のコラム 「ポリアンナ」

とうとう、今年も終わりますね。

あなたにとって、この一年はどんな一年でしたか?

私は出会いと別れをしみじみと感じる一年でした。

特に「別れ」について、感慨深いものがありました。


私は、色々な先生について身体について心について学んでいます。

40代初めから大きな影響を受けた先生がおられて、お近くに来られるときには必ず稽古に参加していました。

しかし、私が50代になって、徐々に足が遠のくようになりました。

言われていることや、理論、お人柄どれも素晴らしいのですが、なぜか離れてしまいました。


長くその理由がわからず、「ご縁のなかった方なのだろう」と思い込んでいました。


あるとき、その先生のお弟子さんのブログを拝見していて、「あ」と声が出そうになりました。

もうとっくに見ることをやめた先生のブログとまったく同じ構造の文章がそこにはありました。

そして、離れてから時間が経ったおかげか、何が問題点なのかが明白にわかりました。


一瞬、悲しくなりました。


その先生も、お弟子さんも、ブログの中で稽古に来ている人を批判するのです。

一般の他人ではありません。自分のところに稽古に来た人間について評するわけです。

褒めるというよりも、相手を「ジャッジする」ようにみえるもの言いに、私は心底悲しい気持ちになりました。


そして、私がその先生の下を離れたのも、それが原因だったのだとはっきり理解しました。


稽古のあと、先生のブログを見て「自分だろうか」「誰だろうか」という不安を募らせていた私は、徐々に稽古に参加するのが苦痛になりました。徐々に稽古から足が遠のき、先生のブログも見なくなりました。


今では「あれれ?」と思います。


自分と関係のあった他者を、一方的にブログ上で断罪するようなことを是とする感性が私にはわかりません。

精いっぱい関係して、精いっぱいお伝えして、駄目ならその場で相手に言えばいいことです。

上から目線で、ジャッジするなんて!!(それも事後に!)


他人をジャッジするのは、簡単です。

駄目なやつと切り捨てれば、それなりに話題としておもしろいし、エピソードとしてわかりやすいです。

でも、ちょっと考えて欲しいのです。

自分のちっぽけな価値観で、相手をジャッジすることの傲慢さ。

相手が自分よりも遙かにレベルが上だったら、下にいる自分には理解不能ですから。

だから誰かを批判して、切り捨てるようなことを書く人は、もしかしたら、相手は自分などよりずっと上にいるのかもしれないと思ってみてほしいんです。


その件の先生が、私より下だとか上だとかを言うのではありません。(技量では明らかに先生が上だと思います)。


からだ塾で、稽古に来ている人たちには、「他人の美点を探しましょう」と常々言います。

他人をジャッジすることは、自分の小さい価値観を相手に押しつけることになってしまうし、それによって自分の狭い世界がもっと狭くなってしまうからです。

英語のスラングでポリアンナ(pollyanna)という言葉があります。「少女パレアナ」と言えば、思い出す人もおられると思います。その児童書の主人公にちなんで、相手や物事の良い面を見つけることに長けた、楽天家さんのことを揶揄して使うのだそうです。

いやいや、ポリアンナ大事です。


からだ塾では、相手をジャッジすることなく、美点や良いところを見つけて、できればその場で伝えて下さいと言っています。

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ちょっと前のことです。

からだ塾の塾生たちと参加した講習会で、私が一番良かった探しが下手くそでした(^^ゞ

身体操作の細かい点に気づくということは、そぐわない動きや無駄な動きが見えてくるということです。

違和感や批判点のほうがたくさん見つかるのですが、それでも、塾生たちは、必死に「良いところ」を探してくれました。

私がついつい批判めいたことしか言えない中で、塾生の一人が言いました。


「先生の教え方が上手い!」


それを聞いて、私たちは爆笑しました。

超上から目線です。でも、私たちもそれを感じていました。

講習会の終わりに、先生方に丁寧にお礼を述べて帰りました。

先生方も笑顔、私たちも笑顔。本当に素晴らしい一日でした。


残り少ない2018年、それから来年もポリアンナで行きましょう!



2018年11月のコラム 自分の身体を信じてみる


すっかり寒くなりました。今朝の山口市の気温は6度!

皆さまいかがお過ごしでしょうか。

さて、今日は武術の口伝や古文書に書いている教えについてちょっと考えみようと思います。

一稽古人として、昔の人が作り上げた武術体系の奥深さには、日々驚嘆するばかりです。どうして昔々にこういう身体の使用法の深みにまでたどり着くことができたのだろうと、稽古のたびに思います。なるほどなあと思うこと、「そうか!」と思うこと、「それ以外にあり得ない」という理合いも多く、先人の知恵には頭が下がります。

常日頃、それらを壊さずに次の世代に送るべきだと思っていました。

「守 破 離」の「守」です。

今でもそう思っていますし、「守」ができていないのに、「破」も「離」もなかろうと思っています。

しかし、ある出来事がありました。

ある教科書に「虎の尾を踏むがごとし」という足裏の感覚、足の使い方の説明がありました。

ふむふむ。虎の尾ね。

職業柄、色々な動物に触れたことはありますが、残念ながら虎に触れたことはありません。ましてや虎の尾を踏むなぞ、あり得ません。仕方がないので、イメージでふんでみたり、うちの三毛猫の長い尻尾を踏んでみたりしていました(猫イジメのつもりはありません!)。猫でさえ、尻尾を踏まれるのを嫌がるし、気づけば攻撃してきます。ましてや、虎。一日に何度も猫の尻尾を苦心して踏んでいる私に、娘が「何やってるの?」と聞きました。

私は、かくかくしかじかと経緯を話したのですが、娘はポカンとして「ねえ、お母さん。昔の人が虎の尾を実際に踏んだと思う?」と聞き返してきました。

ん!?

そうか!!

鈍い私はやっと気づきました。

昔の日本人が「虎の尾」を踏んだことがあるわけがありませんし、たぶん、見たこともないままに書いたのではないかと思います。(見たとすれば、屏風やふすま絵に描かれた虎でしょう!)

私たちの情報世界は、昔の人たちとは違います。現代に生きているということは、ある種のバイアスを持っているということで、「そのまま」受け取るつもりでも、それは無理難題なのです。

だから、「守」が「守」たり得るためには、ただそのまま受け取れば良いという単純なことでは済まないわけです。

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私が生きている(生きていた)サイエンスの世界では、「疑う」ことから研究が始まります。先行研究をそのまま鵜呑みにする人はいません。鵜呑みにする人は、研究者としては失格です。

私も、稽古を通じて「守」が大切だと思いますが、その教えが本当にそれで表せているのかをいつも考えます。

先生の身体というフィルターを通して、先生の言語中枢から出てくる言葉を、「私」というフィルターを通じて理解する。最終的に理解した物が、先生の発した思いとは別ものになっているなんていうことは良くあることです。ましてや古文書や何人も間に人が入った口伝などは、変化して当然だと思います。

そういうとき、どうすればいいか。

ただ闇雲に師匠の教えを守るだけでは「守」にならないのではないかと思います。

師匠が何を伝えようとしているかを、自分の身体を通じて探す。探求する。

師匠との稽古の中で掴むのは言葉ではなく、感覚です。

言葉を疑えと言っているわけではありませんが、先生とあなたの身体は違います。同じ言葉で同じことを指し示しているか甚だ疑問であります。

私自身は、全ての技芸において「守」の段階だし、今後「破」も「離」もあり得ないと思っていますが、全ての教えは自分の身体を通してみて理解したいと思うし、自分の身体を信じたいと思います。こうやって身体を信じられるようになった稽古体系が、大東流合氣柔術の稽古でした。

11月末から、大東流合氣柔術の稽古を始めます。

最後宣伝になってしまいました(^^ゞ

からだ塾は、規模を少しだけ縮小して続きます。ご興味のある方は、是非ご参加下さい。プチプチ体験お待ちしています。


2018年10月のコラム  生き延びるということ


このコラムを書いている9月30日は、台風24号が各地で猛威を振るっています。
ここ山口市では、幸い被害はないようですが、皆さまのところではいかがでしょうか。
今年は、災害の多い年です。被害に遭われた方に、心からお見舞い申し上げます。
さて、今月は災害について考えてみたいと思います。
護身を標榜しているからだ塾ですが、「身を守る」という点では防災、減災について無視することはできません。
災害について、大変おもしろい本がありましたので、ご紹介します。
『人が死なない防災』(片田敏孝著、集英社文庫)2012
その中で、まず一番驚いたのは次の文章でした。
アメリカの小学校で教えていることがあります。
「町を歩いていて、一人倒れていたら助けてあげなさい。
 二人倒れていたら注意しなさい。
 三人倒れていたら逃げなさい。」

あなたには、意味がわかりますか?
私は室内でのことだったら、「ガス中毒(一酸化炭素中毒など)」を、想像します。
しかし、「屋外で・・・なんだろう・・・? 二人なら、なんとか運べるけど、三人は運べない・・・」などと暢気に構えていました。
片田さんは続けます。「何かが起こっていることが明白なわけだから、すぐにその場を離れろ。これは、まさしく危機管理の教えです。」
ああ、そういうことかと、合点が行きました。
危機管理とはそういうものです。
まず、自分の身を守ること。自分の身を守ってこそ、人を助けることができるのです。
「人を助けるためには、まず自分が生きていなければどうにもならない。だから、躊躇なくまず自分の命を守り抜くんだ」と、片田さんは説きます。そして、子どもたちには「率先避難者たれ!」と指導するわけです。
日常にどっしりと落ち着いてしまっている人は、少々の警告などはモノともしません。
避難勧告がでても、警報がなっても、「どうせ今度も大丈夫だろう」と動けないのが、「大人」なのです。
そこで、子どもたちが逃げることで、、大人が逃げる。
だから、自分の身を守って逃げることが、他人を助けることになる。
なるほどなあと、思います。
子どもではないあなたにも、参考になるのではないでしょうか。
その片田さんが、講演の最後に子どもたちに伝えている大切なことがあります。
「最善を尽くせ。しかし、それでも君は死ぬかもしれない。でも、それは仕方ない。なぜならば、最善というのは、それ以上の対応ができないということだ。それ以上のことができないから最善というんだ。精いっぱいやることをやっても、その君の力をしのぐような大きな自然の力があれば、死んでしまう。それが自然の摂理なんだ」

私は胸を打たれました。
「死ぬかもしれない」んです。
死ぬかもしれなくても、最善を尽くす。
これは、護身の場面でも同じことだと思いますし、人生全体についても言えることです。
いえいえ。最善を尽くしても、私たちは「死ぬかもしれない」ではなくて「必ず死ぬ」のです。
人間の死亡率は、100%ですから。
でも、それでも、最善を尽くす。
そういう生き方を、防災は教えてくれます。
『人が死なない防災』。一度読んでみてください。
(山口市中央図書館に蔵書があります。)

2018年9月のコラム 石の上にも三年


少しだけ秋の気配になってきました。
皆さま、いかがお過ごしですか?
さて、個人的なことですが、私がこの「からだ塾」を立ち上げるきっかけは、ちょうど三年前に遡ります。
三年前、熱心に通っていた道場から追い出される形となりました。詳しくは省きますが、大変辛い経験でした。
死にたいとまで追い詰められていた私に声をかけてくれたのは、会員一号となったSさんです。
「村瀬さんに、護身術を習いたい」と彼女は言ってくれました。そのおかげで、「からだ塾」があり、私がいます。
感謝してもしきれません。
この三年というのは、大きな意味があります。
昔の人は言いました。
「石の上にも三年」。
偶然にも、中学校、高校といった学校も三年制ですね。
長すぎない、短すぎない時間。
何かを会得するのにも、一里塚となりうる期間です。
もちろん、三年で全てを掴むことはできませんが。
三年間の努力は、あなたを三年前とは違う人間にするはずです。
私も三年前の自分が予想していた三年後とはまったく違う人生に、驚くばかりです。
今から三年後は二〇二一年九月。
もちろん、お正月や年末、立春という節目に目標を立てるのも大事です。
でも、少しでも早くあなたの「三年」プランを作ってみませんか?
私は、三年前道場を追われて、絶望の中にいました。そのときは目標を立てるなど考えることすらできませんでした。
しかし、振り返ってみて無駄に過ごしたのではない「三年」の力を感じます。
友人や家族に支えられて、新しい先生や新しい道場にもご縁ができました。
今までの三年と、これからの三年。
今から取り組めば、あなたの三年後は別人になっているのです。
たった三年です。
一緒に取り組んでみませんか? 

新しい自分と出会いましょう! 


2018年8月のコラム メメント・モリ


暑い日が続きます。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
さて、今月はお盆もあり終戦記念日もありで、死者に思いを馳せる月でもあります。
「メメント・モリ」 (memento mori)は、ラテン語で「死を想え」という意味です。
私が学生のころ(かれこれ30年位前ですが)、藤原新也さんの著作『メメント・モリ』でその意味を知ったのでした。
それを思い出す出来事がありました。
タイの洞窟で取り残された少年たちのニュースが流れたときのことです。
指導者(コーチ)は、彼らに瞑想をさせて時間を過ごしていたというのです。
情報番組では、コメンテーターたちが口々に瞑想の効用について語っていました。
その中で長嶋一茂さんの瞑想法に胸を突かれました。
まさに「メメント・モリ」だったのです。
長嶋さんは、毎朝短い瞑想をするそうです。
その中で、向こうから虎が来て、そして、食われるというのを毎朝、超リアルにイメージするのだそうです。
骨が砕け、内臓が潰れていく感覚まで。
どんなピンチよりもピンチで、そして無残に敗北する。
瞑想が終わると、静かに「生きている」ことに感謝するのだそうです。
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いったいこの人は、どれだけの辛い思いを乗り越えて来たのだろうと思いました。
リアルな死。
いつかは私たちは、死にます。
死なない人は一人もいません。
虎に食われることはないでしょうが・・・。
死ぬ気でやれば何でもできる・・・と昔はよく言っていました。
実際には「死ぬほうが簡単だ」と死を選ぶ人も多い世の中です。
でも、いずれにせよ死ぬ日は来るのですから、もう少しだけもがいてみたいと思いませんか。
思うようにならない人生や、しんどい人間関係、失敗や挫折。
生きていれば、チャンスはあります。
「死の瞑想」は、私たちがいずれ死ぬ存在であることを思い起こさせます。
生きたいと思っていても、いずれ「死ぬ」のです。
何もできない無力な自分が、虎にバリバリと食われるイメージの強烈さ。
今はまだ、生きてるじゃないか。
今はまだ色々できることがあるじゃないか。
そう思って、私も何度か「死の瞑想」を行いました。
(毎朝はちょっとキツいです。この瞑想はどちらかというと上級者向けです)。
ふと思いました。
「捨身飼虎」の逸話を。
仏陀の前世は、飢えた虎に我が身を差し出して食われて亡くなったと言う話です。
「死の瞑想」をして、心穏やかに我が身を虎に差し出すことができるようになれば、もしかしたら、「死」も怖くなくなるかもしれません。
もう、それは「解脱」の境地ですね。
時々「死を想う」ことで、人生の向き合い方が変わります。
特に、挫けそうなとき、辛いとき、死を想ってください。
私たちはいずれ死にます。辛いことも苦しいことも、嬉しいことも楽しいことも皆消えます。
静かに「死」を想い、生きていることに感謝する。
素晴らしい瞑想法だと想います。


2018年7月のコラム 自分を超える


雨が続きますね。体調はいかがですか?
ちょっとした日頃の心がけで、健康は守れるものですが、それがなかなか・・・。
そうおっしゃる方も多いと思います。
健康に関する本や番組は溢れていて、様々な方法があります。
腹八分目に食べて、夜更かしをせず規則正しい生活を送るだけでも健康になります。
・・・難しいですね。
「がんばれ」というのは簡単なんですが、多くの方が既にがんばってますよね。
これ以上がんばれない・・・と思ってますよね。
私が関わる学生さんたちからも「もう無理。もうがんばれない」という悲鳴が聞こえてきます。
いっぱいいっぱいの中で、どうしたら打開策が見つかるでしょうか。
私は、学生さんたちに言います。
「自分のために勉強してる人はどのくらいいる?」
皆が手を挙げます。そうですね。普通の人は「自分のために苦しい勉強をがんばっているのです。
「それはつらいね。ちょっと考え方を変えてごらん?」
学生は不思議そうな顔をします。
「あなたの今の勉強は、将来あなたが出会う患者さんのためだと思ってごらん?
 あなたが勉強することで、患者さんの笑顔が増えるんだよ。どう? 
 自分のためじゃなくて、周りの人のためにも勉強してみようか」
学生さんたちは、それを聞いて深く頷きます。
そもそもが、人の役に立ちたいと思って看護学校に来られた方々です。
当初の目的である「人の役に立つ」ために勉強をがんばろうと、気持ちを新たにしてくれます。
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稽古会でも、不思議な実験をします。
人を守るときにこそ、自分の力がでるんです。
人間は、自分のためにがんばる人は弱い。
自分のため・・・では、がんばれないときが来ます。
人のためにがんばる人は強いのです。
あなたが、健康であること、身体が動くことで、守れる人がいます。
自分のため・・・ではなく、人のために、もうちょっとだけがんばれるかもしれません。
自分のため・・・という狭い世界を超えましょう。
あなたは、多くの人の間で育ち、多くの人に支えられ、多くの人を支えています。
あなたが、元気になることは、あなただけが幸せになるわけではないのです。
あなたが、元気になることで、多くの人も幸せにします。
自分を超えて、もう少しだけがんばってみましょう。
毎日の生活のなかで、身体に意識をむけて生活しましょう。
自分という人間が、人の間で存在することを意識しましょう。
自分という小さい世界に囚われない心が、あなたの身体と生活を豊かにします。


2018年6月のコラム 人間ってすごい!

梅雨に入ったかと思うと、暑い日々が続きますね。
皆さん、お元気ですか?
私は、この日曜日は、大東流合氣柔術の稽古に続けて福岡の二日市に通っています。
三週目の今日はさすがにクタクタです(ToT)
大東流の師匠は錦戸無光先生です。
先生は80近い年齢でありながら、私は赤子のように投げられてしまいます。
私が本気で掴んでも! です。
私のことを、実際に知ってる人たちは目を剥きます。
「力自慢のあなたが? 嘘でしょ?」
嘘ではありません。
ある看護学校で、そういう話をしていました。
私の先生は力が強いとかそういう感じじゃないんです。
次元が違うんですよね。
筋力を鍛えた人の感じ(自分の理解できる強さ)ではないのですよ。
気がつくと身体が浮いているんです。何が起こったかわからないのです。
かといって、催眠術とかそういうのでもないんですね。
私は「錦戸先生ってすごい」という答が返ってくると思って話をしていました。
すると、看護学校の先生は少し考えてから「人間ってすごいですね」とおっしゃいました。
人間ってすごい・・・ですか?
なんだか不思議な感想をいただいて、しばらく考え込んでしまいました。
そうだった。錦戸先生も人間でした。(失礼ですね)。
錦戸先生は、筋肉モリモリでもありませんし巨大な大男でもありません。
単純に筋肉量だけ比べれば、もしかしたら私のほうが勝るかもしれません。
(ちなみに、体重は私のほうがちょっとだけ重いです)。
しばらく考えて、なるほどと思いました。
同じ人間なのですから、先生にできて私にできないわけがありません。
そのために筋力が必要なわけでもないのですから。
今は、その「人間ってすごい」という感想に私も全面的に同意します。
「人間ってすごい」んです。
身体の使い方を変えることによって、想像も付かないことができます。
もちろん、そのためには弛まぬ努力と繊細な感覚、諦めない心が必要ですが。
「人間ってすごいですね」の一言で、改めて、自分自身の可能性に気づきました。
皆さん、どうですか? 人間の可能性って本当に無限ですよね。

からだ塾では、大東流は稽古しませんが、従来の「筋力」に頼らない身体操作を学んでいます。

一緒にすごさを探究しませんか?


2018年5月のコラム 日々是稽古


 皆さん。陽光輝く五月ですね。平成最後のGWをいかがお過ごしですか?
 さて、今日は週一の稽古で足りるのか・・・という真面目な質問をいただきましたので、それにお答えしつつお送りしたいと思います。
 まず、答えは「YES」です。
 そして、「NO」でもあります。
 私は子どもの頃、バイオリンを習っていました。
 週に一度、先生のお宅に稽古に行きます。それは、一週間の稽古の成果を見ていただき、悪いところを直していくためのものでした。毎日一時間の家での稽古が義務づけられていましたが、怠け者の私は嫌で嫌でしょうがなかったものです。今では、その家での稽古こそが大切だとわかりますが・・・。
 同じ考え方ならば、一週間で十分です。おつりが来るくらいです。
 家でお稽古しろと言うわけではありません。一週間に一度だけ九〇分を一緒に運動して、身体の話を聞き、実際に動かしてみて・・・なんていう稽古をして、それで終わりでは、もったいない。もちろん、効果はゼロではないでしょうが。
 家で、職場で、学校で、座ってる、歩いている時間はとてつもなく長いのです。
 その時間を、しっかり有意義に使って欲しいのです。
 特殊なストレッチや、マッサージのワークは、時々で構いません。
 しかし、日々の「姿勢」の稽古は、これは、日常で続けてこそ意味があります。
 普段ダラリとした緩んだ姿勢の人が、一週間九〇分で何が変わるでしょうか。何も変わりません。
 私がご提案するのは、日々の暮らしの中で身体のあり方に目を向けていただくことで変わるものがあるということ。身体が変われば、こころも変わるということなのです。
 正しい姿勢で(緊張する必要はありませんが、弛緩した身体では困ります)、笑顔で。
 この二つを実践するだけで、日常は大きく変わります。
 あるとき、学生さんの質問がありました。
 そのとき、私は看護学校で「骨盤や下肢」の骨や筋とその動きについて説明していました。
 おずおずと、「関係ないのだけど・・・」と発せられた質問に、大いに考えさせられました。
 「先生、骨盤を締めると痩せる、開くと太るって本当ですか?」
 あのー、私、整体とかエステのことはわからないんですが・・・と答えかけて、ハッとしました。
 骨盤を締めてみて。そう言うと、彼女はビシッとして中心に意識を集めて正しく立とうとします。へえ。
 緩めてみて・・・は、もうお分かりですね。だらっとした姿勢でした。
 私はそれを確認してから、「うん。骨盤締めると痩せるよ」というと、目を輝かして「じゃあ、骨盤整体とか痩せるんですね! やってみようかな」と言います。
 私は、笑ってしまいました。
 人からやってもらっても、すぐ戻るじゃん。そんなにお金貢いでどうするん?
 今、あなたは自分でやれたでしょう? それを維持してがんばって生活してごらん。
 実際、あなたが「骨盤を締めて」立つのはとてもキレイに立ててたよ。
 これだけでも、印象が違うよ。
 ふ~ん。
 しんどいかなあ。
 尻込みする彼女に、慣れるまでだよ。姿勢を維持する筋肉は赤筋で本当は疲れにくい筋肉だから。
 それが使えるようになれば、なんともないよ。
 授業でやったばかりの「赤筋、白筋」を例に出します。
 学生さんは、「がんばってみます!」と笑顔になりました。
 からだのことは、毎日、毎時間の日々の暮らしの中で養われます。
 どういう身体でありたいか、どういう身体感覚で暮らしたいか。
 それができて、初めて「護身」の話ができます。
 毎日の繰り返しの中で、身体を感じる、身体を意識して動かす。日々是稽古です。
 さて、GW明けに、骨盤を締めて生活した学生さんがどうなっているか。
 とても楽しみです。


2018年4月のコラム  居ずまいを正す

ずいぶん暖かくなりました。稽古場の桜も満開です。
皆さん、お元気にお過ごしでしょうか。
私の小さい頃(50年近く前ですね)、葬式と言えば、自宅でするものでした。
家の座敷に多くの人が集まっていた光景を思い出します。
周りの年寄りたちが、正座のまま長い時間を過ごされているのが、印象的でした。
小さな声で話をしたりする様は、リラックスしていてとても楽そうでした。
今でも思い出すのは、もうとうに亡くなった曾祖母が正座のまま私を膝に乗せていたときの、身体の感じです。
一言では言えない、力んでいないけど、スッとした楽ちんな感じでした。
大きくなって正座というのが「足がしびれるものだ」とわかってからは、あのお年寄りたちの佇まいが不思議で仕方ありませんでした。きっと自分も年寄りになったら、ああいう風に座れるのだと勝手に思っていました。
ところが!
あるとき、町内で集まったときです。
御座布団を用意させていただきましたが、多くの方が正座できない。しても、足が、膝が痛い。
できれば、小さいイスを用意して欲しいということでした。用意したイスはあっという間になくなり、正座している私の隣には、「膝が痛いの」と嘆きながら、小柄な女性が座りました。
いまどきは、葬式もイスが用意されているし、お寺さんに行ってもイスがあるのに、ここは・・・と、おっしゃいます。
そうですねえ。 
私は辛そうな女性の膝を見て、本当に気の毒に思いました。
時代が変わってしまったのでしょう。
洋服になり、和式の便所がなくなり、テーブルにイスで食事をし、スプーンやフォークを使い、マグカップでコーヒーを飲む。
重い物はカートで引っ張り、ヒールの高い靴を履き、世界各国の料理を食べ、スマホに夢中。
身体が変わらないほうが、どうかしています。
明治以降、私たちの生活は、「少しでも楽に」と大きく様変わりしてきました。
「緩んで休む身体は楽なのだろうか」ということを、私はいつも考えております。
身体は動くようにできているのであって、休めばいいという単純なものではないように思います。
休めばどんどん身体は動かなくなるのですから、どこかできちんと動かすことが重要です。
スポーツジムに行ってるから大丈夫。
一日必ず散歩しています!
それらも大事でしょう。
身体に良いと思います。
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ある日のことです。
身体操作の勉強会で、次のような話を伺いました。
「ケガしてその後遺症で足が悪くなった学生さんがいた。足のせいで身体が歪んできて、これはマズイと、その学生さんは、朝晩一時間から二時間、神仏を一心に拝んだ。すると、その学生さんは治ってしまった。」
私は、「なるほど、神仏の力は侮れないなあ。すごいなあ」という感想を漏らしました。
すると、その話をしてくれた先生は「違いますよ」と笑いました。
そして、私に向かって、神仏に祈ってください。真剣に! と言われました。
私は思わず、背筋を伸ばして居ずまいを正し、丁寧に合掌して少し頭を垂れました。
ほら、それですよ。
その形。「祈る」ということは、身体を固めるわけではないんです。
神仏に対してきちんと座って、「祈り」を捧げる。止まっているようで止まっていない。
居ずまいを正して動くだけで、身体は整うのです。

私にとって、それはとってもショックなことでした。
筋トレでもなく、ストレッチでもなく、日常の生活動作の中にこそ、身体を整える要素がある。
これが、「からだ塾」の基本的な考え方になりました。
昔の日本人から学ぶことで、身体を整える。
整った身体で動くことで、護身術になる。
そのように考えています。
居ずまいを正す瞬間が、あなたの生活にはどのくらいありますか?
なければ、是非その時間を作ってみてください。
ちょっとずつでもいいですよ。
何かが変わります。

2018年3月のコラム  魂と肉食


皆さん、こんにちは!
寒い冬もようやく終わり、だんだん春めいてまいりました。
だんだん、身体もほぐれてきて、運動やほぐしに良い季節になってきました。
さて、今日は以前からお伝えしたかったことを書きますね。
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以前、大ベストセラーになった本で、『人は死なない』というのがあります。
2011年発売でした。現役の医師が書いた本で、とても衝撃的なタイトルだったのを覚えています。
中身はとても興味深く読ませていただきました。作者の矢作先生は、その後も色々な著作を著しておられます。
いくつかの著書を読ませていただいた中で、「?」と思う記述がありました。
うろ覚えなので、正確な引用ではありませんが、本の中で、「魂のためには、肉食は良くない」ということが書かれてあって、困惑した覚えがあります。
私は獣医学を学んでまいりましたし、現在大学の獣医学部でも教鞭をとっております。獣医師の仕事として、「畜産振興」もあります。だからというわけではありませんが、矢作先生の書かれたことには、違和感を感じたことを覚えております。「そんなはずはない! 肉食が魂を汚すなんてことは、ただの偏見だ」と思いながら、その根拠をきちんと説明できず四苦八苦しておりました。
ある日のことです。
私は滅多に宴会やパーティに出席しないのですが、たまたまその日は出席しておりました。
その隣に座った女性と、高校の話になりました。
私は、山口県出身でないので、山口県の話はとても興味深いものです。
そのときに、彼女が、「知ってます? 山口県の農業高校では、自分で育てた鶏を、殺して捌いて食べるンですよ!」と言いました。
残酷で、ひどい、信じられないという口調でした。
私は、それで? と次を促しましたが、彼女は「私はそんなことはできません。もし殺す現場を見たら、一生肉なんて口にできません」と続けたのです。
私は、真顔で「じゃあ、食べないでください」と答えました。
え? 同意が得られると思っていただろう女性は、虚を突かれてキョトンとしていました。
私は、続けました。肉食というのは、罪深いものです。それまで暖かくて、心があって、動き回る動物を殺して食べます。殺している人たちも、楽しいと思って殺しているわけではなく、最後の最後まで、その動物たちの痛みが少しでも減るように心を尽くしているのです。(屠殺をする人たちは、「殺す」とは決して言いません。「命を解く」と言うのだそうです)。
その事実を見たら食べられないのだったら、食べないでいいのではないですか?
命をもらっている動物、命を奪うという仕事をしている人たち、もちろん、畜産農家のように動物たちを育てている人たちがいて、はじめて私たちは肉を口にできる。そのことを、「見たくない」「見たら食べられない」という人は、食べなくていいんじゃないですか。
彼女は、キョトンとしたままでしたが、話を聞いてくれました。
軽い気持ちで発した言葉に、私が真顔で返したので、大変申し訳ない失礼なことを言ったかなと不安になりましたが、静かに「そうですね」と同意してくれました。
私は熱く反論してしまったことに軽く後悔しながら、パーティを後にしました。
そして、肉食は魂に良くない・・・という矢作医師の著作のことを思い出していました。
そうだ、これだ。
今口にしている食べ物が、どこから来たか。
どんな人生(牛生、豚生、鶏生)を送った動物なのだろうか。
育てた人はどんな思いで、どんな風に育てたのだろうか。
肉にするために、食肉センターでの屠殺はどのような工夫がされているのだろうか。
センターの職員さんたちは、どのような思いで動物の命をいただくのだろう。
・・・肉を口にするということは、これらの動物の思いや人々の思いを受け取ることです。
ただ食べても、栄養学的に科学的に同じことでしょう。
しかし、「人間」として、他の生命や人間を思いやる気持ちがあってはじめて肉食が許されるのではないかと私は思います。
何も考えず、おいしいから食べる。
動物は可愛いから、殺す現場など見たくない。
だれがどのように肉を作っているかなど、関係ない!
そういう考えで肉食をすれば、矢作先生の言うことは正しいのではないかと思います。
自分の生きることが、どのような世界に支えられているのかを知らないで良いという考え方自体が問題なのです。
野菜だって、穀物だって、生きています。
殺して食べています。
どのように育って、どのような人が育てたか、収穫したかを知らぬという態度では、それは「魂」に良くない。
自分を生かしている命、自分を支えてくれている人々のことを知ろうとする。
誠実にあろうとすることが、「魂」には必要なんじゃないかと思うんです。
じゃあ、「魂」って何? なんて聞かれても、今はまだ「魂」は「魂」だよとしか言えないです。
無責任でごめんなさい。
でも、今日口にする肉や魚、野菜や果物、すべてに意識を向けて見てください。
目に見えないあなたを支える人たちの労働を想像してみてください。
きっと「魂」が喜ぶと思います。


2018年2月のコラム 身体に語りかける


寒い日が続きます。皆さまお元気ですか?
立春ももうすぐというのに、当地では毎朝水たまりが凍り付き、私が乗っても大丈夫です。
(九州育ちの私には、氷の上に立てるというのはいつになっても驚愕すべきことです。)
こういう寒さは、身体に堪えますね。
私も古傷がたくさんあって、冬場は痛むことがあります。
さて、身体のことです。
私は医者ではありませんが、「ここが痛いんだけど・・・」などのご相談を受けることがあります。
大急ぎで医者に行くべきか、様子をみるべきか。そのくらいの助言しかできませんが、そのときに気づくことがあります。
多くの人は、「痛さ」「苦痛」「動かない」「動かしにくい」ことを、いまいましいものとして口にします。
この膝が痛くさえなかったら、走れるのに。
この肘さえ、痛まなかったら、稽古にこれるのに。
この肩が。
この股関節が。
私も一時期、股関節の痛みで、空手を休まざるを得ない時期がありました。
膝の痛みで、合気道の稽古が苦痛だったこともありました。
だから、この痛みさえなければなあ・・・という気持ちはよくわかります。
でも、ちょっと立ち止まって下さい。
なぜ、痛いんですか?
あなたの身体は、あなたに意地悪をしているのではありませんね。
今まで頑張って数十年あなたを支え続けてくれた身体です。
頑張って頑張って、あなたを支えてきた身体。
あなたと同じで、あなたが生きてきた数十年を生きてきました。
使い方が悪かったかもしれません。
無理をしたかもしれません。
打撲や捻挫という、外傷からかもしれません。
身体を使っているのはあなたです。あなたがこき使ったから、壊れたのかもしれません。
身体とあなたの関係を会社だと思ってください。
あなたは社長です。
社員(身体)は、あなたのために日々頑張っています。
過労死しそうになって動けなくなってしまった社員に、社長が「お前さえいなければなあ」と思っていたらその会社は良い会社でしょうか?
真面目に努力してきた社員です。社員は、社長の指示通り(指示が間違っていたとしても!)やってきただけです。
たぶん、社員が悲鳴を上げるまでに、色々な兆候があったはずです。それを社長は見逃してきたんですね。
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こういうとき、社長はどうすれば良いでしょうか。
あなたが社員だったら、どういう社長ならもう少し頑張れると思いますか?
まず、社員の労をねぎらってください。
今までの頑張りを認めてください。
あなたの手がもし、年老いているように見えるなら、小さかった頃の手を思い起こしてください。
小さな何もできなかった非力な手が、今では色々なことができるようになりました。
あなたを育ててくれた人々のおかげでもあるし、この手があったからこそのあなたの人生です。
ありがとうと感謝して、どうしたら痛まないで使えるかを工夫してみましょう。

一番良いのは、「痛い」以前の違和感で気づくことが大事です。
なんらかのSOSが、でていたはずです。
身体と対話してみる。
声に出して、色々話してみる。
意外に楽しいものです。
身体は、邪魔なところは1つもありません。
痛もうと、つらかろうと、自分自身の仲間です。
最後まで仲間を見捨てない。
一緒にがんばろうとする社長に、社員はついて行くのではないですか。
一度も会社組織に入っていない私が言うのもナンですが(苦笑)。
私は、今しもやけの足指に「稽古冷たかったねえ」とねぎらいの言葉をかけています。
数日で治るかなと思います。
皆さんも、身体は仲間だと思って話しかけてみてくださいね。


18年1月のコラム 夢を持とう!


明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
さて、2017年は大忘年会で締めくくりましたからだ塾です。からだ塾の忘年会ではいつも「夢」について語ります。皆さんの「夢」は何ですか?


今年の一年が始まりました。とはいえ、12月31日と1月1日で何が変わるかというと、何も変わらずなのですが、せっかくの節目ですからちょっと立ち止まってみましょう。
実際には、2月4日の立春で歳神さまの移動があるらしいので、これまで上手くいかないと思っていた人も、上手くいってた人も、運勢の流れが変わるそうです。(私は以前、「九星気学」を学んでいました。中途半端なまま終わりましたが(苦笑)。武術以外は、なかなか続きません)。
ですから、一年の計は元旦にありだけど、一年の計を立てていない人、まだ間に合います!!
というか、私自身はスロースターターなので、次のように考えます。
一年の計は、世間が年明けした1月のはじめから去年の反省を元に、一ヶ月間考えてみる。2月3日の節分までにじっくり考えてみる。
それなら、一日で一年の計を立てなくていいですね。この一ヶ月の間、「夢」を考えて見てください。
大人になると、大きな夢を持つことが難しくなります。
子どもの頃は、私も「宇宙飛行士になりたい」などと思っていましたが、大人になるにつれて「勉強が難しいし」「運動神経がないし」と諦めていき、その後しばらく大きな夢を持つことができないまま、忙しく時間が過ぎました。もちろん、今、大人の人がそういう夢を持つことはあまりないと思います。そして「夢」といえば、そういうものを思い浮かべてしまうので、大人が夢なんてねえ・・・と尻込みしてしまうのです。
大きな夢が何もない、生活で精一杯だという方に、私は敢えて言いたいのです。年齢が・・・と言う人にも伝えたい。

小さな夢でいいよ。今はできていないけど、将来何か実現したいことを未来に置いて!
実現したいことは、「ゆっくりしたい」でも「旅行したい」でも「おいしいご飯を食べに行きたい」でも構いません。
なぜ、今、ゆっくりできないか。なぜ旅行ができないか。どうしておいしいご飯が食べに行けないのか。
そういう理由を考えて、夢を阻む理由を一つ一つ取り除いていきましょう。
実現したら、嬉しいですよね。
人間は夢がないと生きられません。「生きている」実感が得られません。
叶えられる夢を叶えていくというのは、人生をわくわくして生きる一つの方法です。
人間は生きているから生きているのではありません。
ご飯を食べて、息をしているから生きているのではないのです。
今を生きる、明日への希望に満ちて今を生きていくのが人間です。
ただ生きるて老いて死ぬ人生では、もったいないです。
私は、人間は夢がないと生きられないということを、V.E.フランクルの古典『夜と霧』で知りました。
第二次世界大戦中、ナチスドイツに迫害されアウシュビッツ強制収容所に囚われた人々は、「クリスマスに恩赦があって自由になれる」という一縷の希望を持って寒い冬を生き抜きます。しかし、その「夢」がなくなってしまったとき(実際には恩赦は行われませんでした)、多くの人が希望を失って、亡くなったと言います。(自殺ではありません)。
初めて読んだときは、「そんな馬鹿な」と思いました。
でも、今は思います。ユダヤの人々のように私たちは極限を生きていませんから、希望がなくても命は永らえることができます。
しかし、「夢」や「希望」のない生とは、何でしょうか。人間を人間たらしめているのは、「夢」や「希望」ではないでしょうか。
小さい夢でもいいんです。
人から見れば、馬鹿馬鹿しい夢でも構わないと思います。
もちろん、大きな夢があれば、それを叶えるためにいっぱい努力しなくちゃいけません。
生き生きと生きる。ワクワクして生きるために、「夢」を持ちましょう。
私は夢が二つあります。
一つ目の夢は、武術の稽古を続けて、少しでも上達するという「夢」です。
他人と比べれば下手くそでも、昨日の自分よりも、稽古を通じて上達してく「夢」を持っています。
武術の稽古は、私に「夢」と「希望」を与えてくれます。なんて恵まれているのだろうかと思います。
そして、もう一つの夢はからだ塾を通じて、あなたの「夢」のお手伝いをすることです。
(^o^)

あなたの「夢」は何ですか?