2019年のコラム
2019年12月のコラム ひとりじゃない
とうとう年末。
このブログも今年は最終回です。
月の最初にupしようと思っているのですが、バタバタと雑用に追われすでに月半ば。
お待たせしました。
私は先月、すごい経験をしました。
私は元来丈夫なほうなのですが、それが逆に祟って、無理なトレーニングで身体を壊すことが多いのです。
それをなんとかしたいと思っていたのも、からだ塾を立ち上げた要因になっています。
私は、居合道のお稽古を始めて6年になります。
重い居合刀をブンブン振っていましたら、一年くらいで「外側上顆炎」という状態になってしまいました。
いわゆる「テニス肘」という状態です。テニスをしたことがないのに・・・。
(私たちの業界では「居合肘」という呼び方もあるようですが(^_^;))。
少しでも過剰なトレーニングをすればたちどころに右肘が痛みます。
稽古を休めば治るのですが、完全な治癒までは至らず、だましだまし使っていくこと数年。
自分としては、身体からのサインだから無理しないと、右肘を使ってきました。
しかし、もう少し稽古したい・・・。痛くないように使いたい・・・。
工夫に工夫を重ねましたが、他の武道はともかく居合道だけは稽古の制限がありました。
(稽古時間と得物の重量負荷を考えねばなりません)。
先月のことです。
ある整体の先生にそのことを話しました。(治療ではなく、雑談で・・・です)。
彼は同じ稽古仲間です。
「ふーん。それなら治ると思うよ。やってみる?」
は? その方は都会で治療院を営んでおられるプロです。
プロにこんなところ(稽古場)でお願いするのは・・・と口ごもりましたが、「大丈夫。ちょっとだけやってみるから。良かったら、次には治療院のほうにおいで」とニコニコされているので、思い切ってお願いしました。
その結果は、目を見張るようなものでした。
居合刀を抜かなければ、痛いかどうかわからないのですから、本心は「また居合いをすれば痛いだろう」と思っていました。
帰宅して、次の日から居合の稽古があります。
痛くない? 痛くないわー。
思いきって、弓の稽古も続けて行きました。今まで弓でも50射を越えると肘に違和感がありました。
違和感ないわ・・・。
そして、また次の日になぎなたと弓。
痛くないわ。
次の日は、弓と大東流合氣柔術。
痛くない!?
こういうサイクルを一週間くらい続けて、結論「痛くない!」です。
この話をしたら、門人に「あのねー、また肘を壊そうとしてるでしょ! イイカゲンにしなさい!」と叱られてしまいましたが・・・。
痛くないけど、無茶なペースの稽古はしない。
そういうところに落ち着いて、一ヶ月が経ちます。
無理がかからない身体の使い方を模索していますが、以前のように「痛みに対する恐怖」はだいぶ薄れました。(ゼロではありませんが)。痛みへの恐怖が身体を固めてしまうことを知っていますから、大きな進歩です。
この度の経験から言えることが二つあります。
一つは、治療の「プロ」と言われる人たちの中には、ホンモノもいるということ。
治療家の全員が、ホンモノだとは思いませんし相性もあります。
私はよほどのことがない限り他人に身体を触れられるリスクのほうを考えてしまいます。
(だって下手くそだったら、施術を受けることでもっと身体が悪くなるでしょう?)
信頼できる人間であるかどうかを判断できなければ、とても怖いと思います。
でも、今回は、たまたまでしょうが、すごい経験をしました。
二つ目は、ひとりでなんとかしようとしなくて良い・・・ということです。
餅は餅屋という言葉もあります。素人では解決できないことも、プロにかかれば一発ということもあります。
(特に、感染症などは、もう諦めて医療機関へGOです。風邪に抗生物質はナンセンスですが、普通の場合、目のモノモライ、膀胱炎などは、抗生物質が著効です。あっけなく治ります)。
からだ塾に来られる方の中には、「一年で背が伸びた」「体重が落ちた」「不調がなくなった」と言われるかたがたくさんおられます。私は治療家ではありませんが、セルフケアの方法を少しだけ他人よりも知っています。
あなたは、ひとりじゃない。
「助けて」と言えば、周りにたくさん助けてくれる人が居ると思います。
悩みがあれば、ひとりで抱え込まず、周りに「助けて」と発信してみてください。
そして、誰かの「助けて」をキャッチしたら、サポートできる人になってください。
あなたはひとりじゃない!
新年から、また目標に向かって、一緒に歩き出しましょうね。
2019年11月のコラム お金を使うということ
2019年10月のコラム 小さな筋肉を使う
2019年9月のコラム 身体操作について習うということ
ずいぶん暑さも和らぎました。皆さんは、夏の疲れが出ていませんか? しっかり休んで備えましょう!
さて、今日は「習う」ということについて話をします。からだ塾では、「習う」という技術についても説明することがあります。
「習う」に技術が必要か?
そのことを痛感する出来事がありました。私がやっているある武道でのことです。とても偉い先生が来られて講習会がありました。そのときにある先輩がその先生に質問をして、答えを聞いたあと、私に「ほらね。そうよね。教本にもそう書いてあるから、そっちが正しいよね。聴いてよ。○○先生ったら、違うことを教えてて、私は困ったのよ」と言いました。
○○先生というのは、私の師匠でもあります。
私は、先輩が言ったことに、軽く苛立ちを覚えながら反論しました。
「○○先生は、教本が正しいとかそういうことじゃないことを伝えようとしたのかもしれません。身体操作の指導といのは、画一的にやれるものではありません。「習う」ほうの人間が指導者の意図を組むことは難しいこともあります。」
先輩は意味不明という風情で、「私はそんなことを言ってるんじゃない。教本に則って指導しなくちゃいけないということよ」などと聞く耳を持ちませんでした。
私は、一斉に授業が行われる他の勉強と、身体の勉強は全然異なっていると考えます。同じ言葉を聞いても、受け取り方は様々なのが身体感覚です。そして、相手の身体感覚を私が見て理解することはかなり難しいことです。
最低限の動きについては、見た目からフィードバックをかけることができます。
しかし、深い動きになると教える側と受け取る側のすり合わせでしか「教える」は、成り立ちません。
教える人と習う人、双方の観察力と洞察力がモノを言います。だから、最初期にテキストがあったとしても(動きの基本は知っててもらって覚えてもらってから稽古が始まりますから)、進むにつれて、身体に対する指導は人それぞれになっていきます。
昔の武術は、今の体育の授業のようではなかったと言います。
必ず、一対一。師匠と弟子の身体感覚の洞察勝負なわけです。
もちろん、現在の「武道」では、先生が前に立って行う体育のようなものもありますが、それでも、指導というのは一人一人に行われるものであります。
言葉が同じでも、言う人が違えば違う。言われる方の人によって、言葉は変わる。
「あなた」に師匠が投げかけた言葉は、唯一無二のものです。他の人のために発せられたわけではなく、「あなた」に向けられたものです。ということは、身体感覚の稽古は、常に一対一でしか行うことはできません。
これは、「テキストにこう書いているから」とか「偉い○○先生が言ってたから」という「万人向け」の指導とは全くことなります。
私がインターネットを通じて、皆さんに話しかけることはできても、身体感覚の指導は絶対にネットではできません。
(ヒントを置いていくだけです)。ですから、まずはあなたに向けられたあなたの師匠を言葉を信じて習いましょう。わからなければ、何度でも聞けば良いのです。それに応えるのが指導者の仕事ですから!!
身体操作をまなぶということは、一対一で、師匠と向き合うということでもあるのです。それを肝に銘じて、稽古しましょう。師匠の言葉に耳を傾け、身体で理解しましょう。
「万人向け」の稽古で満足する人は、その先に行けませんし、その先があることにも気付きません。
是非、武道武術の深みへ、ご一緒しましょう!!
2019年8月のコラム 筋トレ再考
暑い暑い日が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
昨日は山口市は38度近くまで気温が上昇し、一日中稽古していた私はうっかり熱中症になるところでした。
危ないですね(汗)。つい夢中になるというのは、稽古の上では必要なのですが、気分が悪くなって初めて己の不調に気付くというのでは、遅すぎますね。反省です。
さて。
今日は「筋トレ」についてもう一度考えてみたいと思います。
というのも、今、若い人たちに人気のアニメ「ダンベル何キロ持てる?」が意外にも結構面白いからです。
もちろん、このアニメは「筋トレ」がテーマです。主人公のひびきは女子高校生ですが太ったことで「痩せたい」という動機でジムへ行き、ボディビルダーのトレーナーや仲間と出会いいろいろなスポーツ理論や実際のトレーニングに挑戦していくというアニメです。
主人公たちがあまりに楽しそうに筋トレをするので、ついつられてやってみたくなります。
というか・・・実際にテレビを見ながらやってしまったのは私です(汗)。
筋トレ禁止と言ってるのにずるいですね。
普段意識できない部分を、意識するのに筋トレは使えるなあと思いながらちょっとだけダンベルカールをやってみました。
普段はあまり使わないようにしている上腕の筋肉の弛緩と収縮がダイレクトにわかります。
なるほどー。
筋トレも、一つの身体との対話です。
質の良い筋トレをしようと思えば、筋肉を意識して身体全体の構えを維持していなければいけません。
それは、もう筋トレという身体対話のような様相を呈します。
そして、筋トレは効果が目に見えるのですから、楽しいですね。はまります。
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だから、筋トレは怖いと思って下さい。
パーツごとに身体を鍛える→効率よく筋肉が肥大する・・・というのが筋トレですが、日常生活や競技、武術では「パーツごと」に身体を使うということは絶対にありません。むしろ「パーツとして使う」ことを忌み嫌います。パンチをしているから「手」でしょ? というのは、素人です。パンチであっても、全身を連動させて「手」以上の力を出すのが武術のパンチです。
筋トレでは全身の連動はできない。
むしろ、大事なときにパーツで使う筋トレの動きがでてしまい、邪魔になる。
だから、筋トレ禁止ですと私は言ってきました。
今でもそれは変わりません。
しかし、稽古をしているときに「あ、ここが弱いな」と見ていてわかるときがあります。
たとえば、お腹です。
お腹と腰、背中と胸は身体の土台を作る幹となります。
しかし、お腹は使い方がわかっておられない人が多くいつも悩みます。
お腹が使えていないですねーと言おうものなら、「じゃ、腹筋します!」と目を輝かせるので慌てて「あ、腹筋はちょっと・・・」と言うことになります。
最近は、お腹が弱い人には「腕立て伏せ」の最初の状態だけやってもらうことがあります。
ただ腕をついて身体をまっすぐに保持するだけです。筋トレとは言えないかもしれませんね。たいした負荷はありませんから。
いやいや。お腹が弱い人には、このポーズも至難の業なんですが。
「ダンベル何キロ持てる?」を見ながら考えました。「筋トレ競技(ボディビルやベンチプレスを含みます)」のための「筋トレ」は必要です。そして、「筋トレ」は楽しいしはまります。だからこそ、「筋トレ」は気をつけて欲しいと思います。必要なことを必要なだけするのが、大切なんです。
(塾生には、アドバイスしますよー)
それにしても、「ダンベル何キロ持てる?」の主人公、ひびきちゃんの声優さんにはびっくりしました。
ファイルーズあいさん。新人さんなのですが、とても上手い。ひびきちゃんにぴったり。
ですが! 彼女の趣味は「筋トレ」! ムキムキのリアルひびきちゃんでした!!
2019年7月のコラム 忘れる能力
7月になりました。またまた更新が遅れてごめんなさい。m(__)m
7月の初めは、私の好きな花が咲きます。え? 柄でもないって?
いえいえ。「花より団子」で生きてきた私ではありますが、好きな花もあるんですよ。
それは、ネム(合歓)です。ふわふわとピンクの花が、特徴的な樹形の上にぽわぽわと咲きます。
昔は別に好きな花ではありませんでした。
なぜ好きになったか?
なんでだろうなあと、ぽわぽわした花を眺めながら考えました。
ああ、そうかと思い当たりました。
私がはじめて子どもを出産したのが、7月なのです。
不安と緊張の中、でも腹をくくるしかない、産むしかないとなったときに、目に入ったのが、この花でした。
臨月の不安もあったはずですが、それよりも生物として充実していた身体の感覚をまざまざと思い出すことができます。
苦笑いしちゃいますよね。不安とか恐怖はすっかり忘れていますもの。
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学生さんが嘆きます。「忘れるほうが、覚えるよりも多い」と。
私は「忘れる能力って大事なんだよ」とフォローしますが、誰もフォローと思っていない様子。
忘れなければいいのに、と口を尖らせます。
いいえ。いいえ。
考えてもみて下さい。
いま、私がネムの花を見て幸せな気分になれるのは、当時の不安をリアルには覚えていないからです。
あなたが、今まで経験したどんな嫌な事でも、「リアルにまざまざと」思い出せるということはないはずです。
(つい最近経験したことなら、まだリアルでしょうが)。
時間は、あなたにとって辛かった苦しかったことを風化させてくれます。
それは、正常な心的機構です。(もちろん病的反応であるトラウマとなれば、話は別ですが)。
時間薬と言いますが、心にもそれがあります。そして、それは人間の「忘れる能力」という大切な能力なんです。
辛かったこと、苦しかったことはそれがあったということは覚えていますが、実際の感覚ーー震えるような恐怖や、今もう死んでしまいたいような苦痛ーーは、忘れています。なんてありがたいんでしょう!!
そして、人間のスゴイところは、それだけではないです。
幸せな記憶のほうが、忘れにくいんです。
「花より団子」という人生を歩んできた私でさえ、こうやって長生きしていると、「花も団子も」と幸せが増えました。
長生きすることの意味が、私にはわかっていませんでした。
今は少しわかります。
花を愛でる、自分の人生を振り返りちょっぴり幸せな気分になれる・・・為かもしれません。
そのためにも、「忘れる能力」ってとても大切。
いつかは忘れる。時間が救ってくれる。・・・ちょっとだけそう思って下さい。
そして、幸せな記憶を大事に過ごしてください。
忘れる能力があるから、人間は生きていられる。
恥ばかり多い私には、とても救いです。
皆さんは、どうですか?
2019年6月のコラム ルーティーン
2019年 5月のコラム 挑戦し続けるということ
2019年4月のコラム 「いい人」になる
春ですね。皆さん、お元気ですか?
こちらでも桜が八部咲き。でも、昨日からの寒の戻りに震えています。
さて、今日の話はアニメからの話題です。(実は私はアニメやマンガが大好きなのです)。
『モブサイコ100』というアニメがあります。好きな人たちの間では結構話題になっていますが、一般にはあまり受けがよろしくない。理由は主人公が地味だというところではないかと思っています。
さて。その『モブサイコ100』の地味な主人公は超能力を持っています。
彼の師匠が、主人公の少年「モブ」に言う台詞があります。
人生の指針、超能力の使い方を学ぼうとする「モブ」に「いい人になれ!」と言うのです。
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人間はどうあるべきか。
そのように振る舞うべきであるか。
そもそも人間とは何か。
古今東西の哲学者たちが考えてきたテーマでもあります。
それを一言で「いい人になれ」と言い放った師匠。
当初は私は「いい人」なんて相対的なものだから、なんとイイカゲンなことを言うのだと思ったものです。
しかし、主人公の「モブ」くんは、自分なりに考えていろいろな人たちと対峙する中で真摯に「いい人」であろうとします。ウーロン茶の缶一つとっても、「作った人」がいる。だから粗末にできない。そういう想像力を細やかに働かせていくわけです。
なるほど。一面の真理だと思いました。
「いい人」になる。
私たちの会では、「ウソをなるべくつかない」「笑顔で」という二大原則があります(本当はもう一つ原則があるのですが、それは説明すると長くなるので)。ウソをつかないで笑顔で過ごせるとしたら、その人は「いい人」の最低条件かもしれませんね。
私がそれを言うのは、回り回って「自分のため」です。ウソをつくとからだが弱くなる。不機嫌な顔をしているとからだが弱くなる。だから、それはやめようと言っています。
『親切は驚くほど体にいい!』という書籍があります。(D.ハミルトン著、飛鳥新社)
人に親切にするという行為が、いかに自分にも他人にも良い影響を与えるかということが延々と説明されています。幸せになりたければ、人に親切にすれば良いのです。健康にもなります。実に科学的な裏付けがあるのです。
新しい職場、新しい学校、新しい人間関係になる方も多いかと思います。
私もそうです。毎年毎年新しい学生さんたちと出会います。不安と緊張の中新年度がスタートします。
その中で、あえて言いましょう。(自分に言い聞かせましょう!)
「いい人になろう!」
そうです。親切は驚くほど体に良いのです。もちろん、心にも!!
2019年3月のコラム 身体操作の極意
ずいぶん暖かくなりました。当地では菜の花が満開です。
気持ちがウキウキと上がる方もおられれば、なんとなくメランコリーになるという方もおられると思います。季節や天気、風景や周りの人の対応で私たちの心は大きく揺れます。本来ならいついかなるときでも「揺るぎない」自分がいれば良いのですが、なかなかそうなりませんし、揺れているのにそれを認めない鈍さが一番の困りものです。そういうものだとわかった上で、改善があったり「揺るがない」ためには? という次のステップにいけるのですから。
さて。
今日は、会員の方とはすでに共有しているはずの身体操作の極意をおさらいしておきましょう。
極意というと、なんだか大層なことのようですが、私はまず、この二つを理解してもらってから細かいことがあるのだと思っています。基本のキですね。
極意は二つです。
一つは、「解剖学的な基本的な知識」。
え? と思う人もいるかもしれません。医者でもないのに「解剖学」とはまた大仰ではないかと思われることでしょう。しかし、私たちの身体は「物理」です。(もちろん「物理」だけではありませんが)。骨の形状上、動ける方向が決まっています。また、筋肉の形状を見ればその筋肉が何をするための筋肉なのかがわかります。
そうなっているから、逆らわない。筋骨の名前を覚えることは必要ありません。その程度の(この程度でも結構大変ではありますが)、動作原理の知識があるとないとでは大きな差が出ます。
肘や膝がどのように曲がるようにできているか。腹筋は何のためにあるのか。股関節を屈曲させる筋肉はどこにあるのか。指先を開くための筋肉はどこにあるのか。首はどこがどのように曲がるのか。股関節はどこか。(意外に皆さん違うところを股関節と思っていて、そこから曲げようとしてしまいます)。
身体操作というと、なんだか難しいことのようですが、まずは「生き物」としての本来の動きはどのようなものであるのか、どこからどう曲がるのが理にかなうのかを理解してることが大切です。子どもはそれを、身体を動かして遊びながら体得しますが、大人はまず「頭」で理解して動くことが近道なのです。
もう一つの極意は、「One for all, All for one」です。
デュマの『三銃士』の言葉らしいのですが、「一人はみんなのために。みんなは一つの目的のために」と訳されます。(みんなは一人のために・・・は誤訳だそうです)。この言葉に出会ったとき、私は、「これだ!!」と思ったのです。
身体のどこもかしこも、置いてけぼりにしない。忘れない。捨てない。道具にしない。わかりますか? 指先や足の裏、足の指、背中なんかを無視しない。身体のすべてが使われて、生き生きと動く・・・ことができれば、それこそが最高のパフォーマンスを生みます。だからといって、背中が出しゃばるんじゃないし、腹筋が出しゃばるわけでもない。そのバランスと、「全身が生き生きとする」ことが身体操作の極意といえるでしょう。
どうすれば、それが実現できるか・・・。それは私自身の課題でもあります。
でも、まずは意識を変える。身体にはすっごく頑張るところとそうでもないところがあって良いわけではなく、どんな部位でも気持ちを通しておいて使えるようにする。サボっているところや、過労で倒れそうなところがないか、常に気を配る。
あれれ。まるで、会社の社長さんみたいですね。会社じゃなくても、あなたはあなたの身体を預かっているリーダーです。身体の使い方について、まずは会社(身体)が生き生きとするように、すべての社員(身体部位)をしっかり見て、しっかり使ってほしいと思います。
あなたの社員は、どんな風ですか? あなたの会社経営はいかがですか?
2019年2月のコラム 「いま、ここ」を生きる
今日は立春です(更新遅れてすみません!)。
名実ともに、新しい年が始まりました。新たな気持ちで前向きに進みましょう!!
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私がいつも残念に思っていることがあります。
私は○○だから・・・。という決めつけが、自分の可能性や柔軟性を損なっている人の多いこと!
○○の中に謙遜ともとれるネガティブな言葉が入れば、私は即座に否定します。「馬鹿だから」「頭悪いから」「運動神経がないから」「もう年齢だから」「未熟だから」という言葉は自分の頭から、さっさと捨ててしまうべきです。「そんなの関係ねえ♪」というフレーズが私の頭の中でなりひびきます。
今日は、逆の話。逆だったら良いかというと、そんな単純なことではないのです。
○○の中に、ポジティブな言葉が入ればいいか? そこを問題にしたいのです。
私は頭が良いから。
私は運動神経が良いから。
・・・これは、よくあることですが、実際に評価されたことのある人ほどそれに囚われてしまうのです。有名大学卒だから、大会で優勝経験があるから、高い段位を持っているから、社会人として高い地位にあるから。また、これらとは別の生活経験がその人の○○になってることもあります。苦しい離婚トラブルや介護経験を乗り越えたから、闘病を乗り越えたから。子育てや妊活、仕事や海外経験。自分が経験したことは宝ですが、それを根拠に生きている人のなんと多いことか!?(私自身も自戒を込めて書いています)。
過去がどうだったからどうだというのでしょうか。もしくは、会社では偉い人でも、今目の前にいるあなたは何者なのでしょうか。
「いま、ここ」にいるあなたをそのまま自分で受け入れる方法はないのでしょうか。
何にもとらわれず、先入観なしの「いま、ここ」の自分とは?
「いま、ここ」は一瞬で、少しでも心がとらわれていたら逃してしまうものです。
禅の世界に「無位の真人」という言葉があるのだそうです。
いろいろな解釈がありますが、私は、何もかもをとっぱっらって「いま、ここ」を真剣に生きることが「無位の真人」に近づくことじゃないかと考えてしまいます。年齢も性別も関係ない。多くのとらわれを少しずつ外していくわけです。近代西洋思想においては「自我」「アイデンティティ」ということが大きな問題となっていました。「私は何者か?」「私が」「私が」と「私」中心に考えることの限界が今の世界状況を作り出しているかもしれません。
「仕事も地位も知識も関係なく、ただ「いま、ここ」を真剣に生きる場」が、あなたにはあるでしょうか。
なければ、つくってみてください。取り戻してみてください。
(私たちは、生まれた時は「無位の真人」だったのかもしれません)。
私たちはいつか死ぬときは地位も名誉も愛する人も連れて行けません。「いま、ここ」をしっかりと生ききることでしか、しっかり死ねません。あなたの中の「無位の真人」が大きく育つように、「いま、ここ」を生きて、生きて、生き抜きましょう。
2019年1月のコラム まっすぐ立つということについて
よりかからないで立つことの先にある目標は、「まっすぐに立つ」ということでもあります。(実際には、身体の中のどこにもよりかからなければ、結果的にまっすぐになるのですが)。
まっすぐに立てるとしたら、それは全ての身体操作の上で良いパフォーマンスをうみます。もちろん、まっすぐに立つことだけが重要ではないのですが、まっすぐに立ててはじめてわかる世界というモノがあります。
まっすぐに立って下さいと言うと、多くの人が「立ってます」とお答えになると思います。では、まっすぐって、何でしょう? 写真やビデオで客観的に確認すればまっすぐが検証できるでしょうか。
ある日、私はいつものように、「まっすぐ」を探して立っていました。ときどき「あ!」と声が上がるくらいストンという感覚が出てくるのですが、どうもそれが長続きしません。第一に私の集中力のなさが原因なのですが、それにもめげず立ち続けていたときのことです。
よりかからないで立つ。まっすぐ立つ。