2020年のコラム
2020年12月のコラム 動物と暮らすこと 2
とうとう12月です。皆様お元気ですか?
10月に予告していた動物と暮らすことの続きを書きましょう。
今、私の膝元には、猫が伸びて寝ています。何度も出てくる雑種のお年寄り猫です(14歳を越えました)。動物と暮らす、もしくは暮らさなくても、動物は良い先生になります。私の世代では、『いなかっぺ大将』のにゃんこ先生を思い出す方もおられるかもしれません。(若い方は『夏目友人帳』でしょうか?)いなかっぺ大将の中で、主人公の大左衛門は、「キャット空中三回転」をにゃんこ先生の動きから学び、強くなっていきます。中国拳法では、動物の名前を冠した拳法(蟷螂拳などが有名ですね)もあります。動物に学ぶとはどういうことでしょう?
動物と暮らすと、日々の動物の動きを目にすることができます。
「肩甲骨を動かせ」とか、「しなやかな体幹」などは良くいわれることで、からだ塾でも猫科動物の肩甲骨を真似て動くことがあります。(なかなか思うように動けないのですが)。
今日は、違う視点から動物と暮らす、動物を観察していて、学んでいただきたいことを書きますね。(我が家は猫なので猫の話をします)。
というのも、一日、飼い猫っていうのは何をしているんでしょうか。食べたい時に食べて、眠りたい時に寝る。動きの中に、無駄でないことはほとんどありません。動きの多くが無駄で、その無駄を我々は愛しているのです。合目的な動きはほとんどなく、ただ動きたいから動いています。(狩りをするときはたぶん別ですが、飼い猫で真剣に狩りをしなくてはいけない子は少ないでしょう)。
昔、動物行動学の学者が飼い猫の行動を分析して、一日五〇〇回以上伸びをするのだという論文が出たことがありました。飼い猫は生きるために動くのではなく、「気持ちよい」から動くのだと知って、衝撃を受けました。なるほど我が家の飼い猫も始終自分の身体を舐め、顔を洗い、伸びをして突然走ったり、じゃれたりで結構忙しい毎日です。
一方、人間たちはスマホやパソコンの前に座り込んで指先だけを動かしている。身体がおかしくなるはずです。眠れば疲れがとれるかというと、その前に昼間どのような身体の使い方をしたかということが重要なはずです。
野口整体では「活元運動」というのがあります。無意識的に動いて身体の自然回復を助ける・・・ような運動なのですが、昔道場に足を運んだ私は「無意識」というのが引っかかってほとんど動けませんでした。今、猫に学ぶことでわかることがあります。別に意識的でも無意識的でも良いのです。「気持ちよい状態」を身体が探ることで動くと良いのです。
もちろん、スポーツなどで決まった動きで動くことは「気持ちよい」か「気持ち悪い」かよりも、その運動を遂行するという目的があります。気持ちよいは二の次の目的ですね。ですから、スポーツではなくて、猫を真似してただ気持ちよければそっちに動いてみることが大事なんですね。
たとえば、朝起きたとき寝床で伸びてみる。足をギュッとしてみる。腕を上げてみる。ねじってみる。ひねってみる。ああ気持ちいいっていう動きをやってみる。人間には目的がありますから、その合間に。ATMの列で、歩くとき、車を運転しているとき、考え事をしながら、本を読みながら、テレビを見ながら。肩を回す、ゆする。首を伸ばす、腰を伸ばす・・・できることはたくさんあります。からだの心地よさを常に追求すれば、動くことの重要性に気づきます。
私は、子どもの頃から「落ち着きのない子ども」と言われて育ちましたが、TPOによっては、落ち着かないほうが気持ちよいのです。
気持ちよく動き、気持ちよく寝る。美味しく食べる。
実践してみませんか?
2020年11月のコラム 「ワカラナイ」から始めよう!
すっかり秋・・・というより、冬の気配です。
11月7日は立冬ですね。ついこの間まで「暑い暑い」と言っていたのに!!
さて、今日は学校や武道の指導で気づいたことについて書きましょう。
というのも、今年は「オンライン講義」と「対面講義」が錯綜していて、学生はもちろん、教員も振り回されている状態だからです。前期「オンライン」ばかりだったという学生も少なくありません。そのせいか、後期の「対面」には真剣に取り組んでいる学生が例年より多いと感じます。「オンライン」と「対面」の違いを、彼ら彼女らは、敏感に感じているのだと思います。
「対面」でしか感じられないもの・・・。それは、何でしょうか。
私たち教員(もしくは武術の指導者)が割に普通に発する言葉があります。
「わかりますか?」
10年くらい前から「わかりません」と答えてオシマイ! とソッポを向いてしまう子どもが増えました。「ワカラナイ? なんでかなあ? やったところだよ。ヒント上げようか? 考えてみようよ?」私は水を向けます。しかし、「習っていません」とピシャリと門前払いされてしまいます。
そもそも、勉強や稽古はわからないからやるんですね。最初からわかれば、勉強も稽古も必要ないです。
だから、「ワカラナイ」ことは恥ずかしいことではありません。そこを耐えて考えたり、色々試してみるのが勉強であり稽古なんです。
同じ時期から「わかりました!」と答える人も増えました。そう言いなさいって教育されているんですね。わからなくても「わかりました」。元気よく「わかりました」と答えても中身が薄っぺらい理解のままの方もたくさんおられます。
私は、教育や指導は「教えるもの」だとは思っていません。本人が考えて苦労してたどり着かなければならないものだと思っています。教育者や指導者はその道を示すだけです。
ソクラテスの時代から、そういう勉強法は「問答法」「助産術」といって、相手の思考を助けるための方法として確立しているわけです。
ところが、今の子どもたち(大人も)、「わかる」か「わからない」かの二択で、パッと答えられれば「わかってる」、答えが浮かばなければ「ワカラナイ」という単純なオンオフ思考でしか取り組みません。「わかる」としてもその理解がどの程度なのかを見極め、「ワカラナイ」ならどのようにそのことに取り組んでいくのかを示すことが、私の仕事です。しかし、「わかる」人はもう指導者の話を聞かないし、「ワカラナイ」という人は瞬時に諦めます。違うよ? わかっても先はまだあるし、わからなくてもわかろうと努力する中にヒントがあるよ? そう伝えたいのですが、「オンライン」ではそれが伝わらないんです。
正しいか、間違いか。「わかる」か「ワカラナイ」か。当然正しい答えを導き、「わかる」ことにこだわるわけですが、それ以上に私が重要視していることがあります。正しい答えの中にある理解の濃淡、「わかる」という主張の真偽です。「対人」ならば見抜くことができます。(できて欲しいと思いますし、私はそれを重視して教育の仕事、武術指導の仕事をしています)。「オンライン」では、それが大変難しい。
だから「対人」にこだわるのです。(実は「オンライン」もものは試しと二回ほど某看護学校で試させていただきました。「先生が家に来てくれたみたいで楽しかった。」「おもしろかった」という感想をいただきましたが、後で対面で理解を確かめると、散々なものでした)。
「対面」でしか伝わらないものが確かにあります。そして、私たちが「対面」で知ろうとしているのは、あなたの「ワカラナイ」への取り組みです。それは言葉ではなく、態度表情雰囲気ににじみ出ます。
私たち指導者が「わかりますか?」と聞くとき、「わかります」という答えを期待しているわけではありません。「ワカラナイ」「わかっていない」ことに気づいて、わかろうと取り組んでほしいということなのです。
すぐわかることなどは、底の浅い浅薄な理解のことが多いです。「わかりそうだけど・・・・うーん。(+o+)」と苦労して自分なりのそのときの結論にたどり着くこと。(もしくは、たどり着かないこと。そのときたどり着かなくても理解しようと努力したことは残っています)。
理解のためには、その「ワカラナイ」の積み重ねが必要なのです。
そして、「ワカラナイ」ことを恐れないで、一緒に取り組んで欲しいのです。特に身体操作に関しては、初めてのことが沢山あります。そのときに、「わかりません!」と発言して終わってはもったいない。「ワカラナイ」が出発点なのです。
★動物についてはまたいつか続きを書きましょう。
お詫びに、うちの小さい奴の写真をあげておきます(^_^)
2020年10月のコラム 動物と暮らすこと1
すっかり涼しくなりました。皆様お変わりありませんか?
今月もコラムがすっかり遅くなってしまいました(^_^;)
いつもいつも、話の種を探して過ごすのですが、後から見直すと「面白くないやん?」と没にすることもしばしばです。
今月も、一つ没にして家でゴロゴロしていました。
私の執筆場所は食卓ですが、こんなに気候が良いときは縁側にノートパソコンを持ち出します。
その日も、大きく開け放った窓を眺めながら、苦吟していました。
すると、猫が「遊んでくれる?」とキーボード上の指にちょっかいを出します。
「こら!」叱っても猫はめげません。
つられて、結局私もパソコンを仕舞い、猫を相手に遊びはじめてしまいました。・・・執筆がまたしても延期となり今日なんです。(今日は猫から避難して猫のいない場所で執筆しています)。
おかげで、動物と暮らすことの意味を考えてしまいました。
動物と暮らす、特に弱い小さい生き物と暮らすのは相手への配慮が必要です。
熊本市の竜之介動物病院の徳田医師は、「動物と暮らすときには、配慮が必要」と言われます。私ども獣医師が遭遇する事故で、意外に良くあるのが室内で飼い主さんが動物を踏んでしまったという痛ましい事故です。気をつけていれば大丈夫と、長いこと動物と暮らしている私は思うのですが、初めて動物を飼うときなどは特に注意が必要です。
普段から、気を巡らせておく。
普段から、「何気ない」「雑な」動きをしない。
集中しても、自分の身体を忘れない。
この3つが動物と暮らす上で必要で、実は自分を護るためにも必要なスキルではないかと考えています。
普段から、気を巡らせておくというのは、普段から自分のテリトリー内に何がどのように存在するかを感じるということです。目で確認するタイプの人もいるかもしれませんが、目だけではなく、音、臭い、手や足に触れた感じ、風の吹く方向、などを常に気にしておく。頭で考えるのではなく、アンテナだけ張っておいて「おかしい」と思えば反応するのです。動物が足下にいないか、籠から逃げ出していないか、足先に何かふわふわしたものの気配がないか。このスキルは、早く異臭に気づいたり火事を発見したり、毒蜘蛛に気づいたりできるスキルでもあります。
二つ目の「何気ない」「雑な」動きをしないというのは、とても難しい話ですが、自分自身の中にも気を巡らせておくと言う話です。
惰性で動く、いい加減に動くとどうしてもやり過ぎてしまう。
消しゴムをかけるときに、がんがん消して、ついでに紙をやぶる・・・というあなたは、これができてないんです。(実は白状しますと、私もです)。
力一杯っていうのは、割と簡単ですが、加減をしながら動く。闇雲に動かない。これは、掃除なんかでも力一杯やって後が続かない(もしくは後が疲れる)人はもっと優しく身体を動かしてみましょう。動物に気づいても力一杯踏み込まなければ、怪我をさせることはないし、万が一踏んでしまってもそれが致命傷にならずに済みます。
そして、三番目が身体を忘れないってことです。
身体を忘れる? そんな馬鹿な? と思うでしょうが、意外に忘れている人、多いですよ。
足の小指を机の脚にぶつけたとか、ありませんか? 小指が自分の身体の一部であることをしっかりと認識していれば、ぶつけることはないです。忘れるからぶつける。ぶつける相手が机の脚なら良いですが、小さい動物だったらかなりまずいことになります。
身体の隅々まで意識して動くと、不慮の事故が減ります。
いかがですか?
武道家の先生の中には、動物と暮らすのをいやがる方もおられますが、私は良いトレーニング相手になると思っています。特に、家の中を勝手にうろうろしている小さい奴らは、気を巡らす稽古に持ってこいです。
うちの小さい奴・・・といっても、4.5㎏ほどありますから、ちょっと太めですね。
何もなければ、動物について、次月も語りましょう。(動物と暮らすこと2へ続く)
2020年9月のコラム 人を呪わば・・・
皆さん、こんにちは。
今年は夏休みもなく、イベントもなく、なんだか寂しい夏でした。
暑さだけは超一級でしたが! 今日4日は、少し涼しい風も吹く山口市です。
さて、今日は私のある体験を書こうと思います。
ある日の弓道のお稽古のときです。遅れてきた私は「オチ」という場所で弓を引くことになりました。
弓道では5人一組で動きます。オチは1番後ろ。1番責任重大と言われますが、私は「練習だし大丈夫」と気楽でした。
ところが、1番前(大前)が中てます。
次の人が、中てます。
真ん中の人(中)も中てます。
オチ前の人も中てます。
びびりました。
でも、まだそのときは無心でした。私の矢も的に中りました。
ここからが、緊張です。前の人たちが、二本もって出た矢のもう一本も次々と中てて行きます。
これは、私だけが外す訳にいきません。緊張が高まって来ました。
そして、普段は思わないのですが、オチ前の人が「外してくれますように!!!」と祈っていました。
それだけ、オチが一人外すのは嫌だったのです。練習とはいえ、それは嫌だと思ってしまいました。
一緒に外してくれればいいと、オチ前の人に「外して!」と願いました。
パンと良い音がして、的中でした。
あー。私の責任はMAXです。
もちろん、練習だから外したって良いのです。けど、ギャラリーたちが最後の私の射を見ています。
緊張でバクバクする心臓をなだめながら、的を狙ったときです。
「外せ!」と自分が発した念が、自分の中でこだましました。
いや、もう違うの。私は中てたい。外しちゃだめ! といくら思っても、耳の奥で「外せ」という命令が響きます。
後悔は先に立たず。
私が外したのは言うまでもありません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そういうことか。
私はあることに気づきました。
昔から「人を呪わば穴2つ」と言います。
1つは、呪われた人の墓穴、もう一つは呪った自分自身の墓穴。
つまり、呪いは返ってくるということだと理解していました。
メカニズムはちょっと違うんですね。
今回のことでわかったのは、脳は命令を「誰に」発しているのかを理解していない。
命令のような強い語調では、「誰に」というのは重要ではないのです。
潜在意識では、命令の中身だけをダイレクトに受け取るんではないか。
だから、誰かに呪いの言葉を吐くと、それは自然自分に対しての命令となる。
調べてみると、潜在意識はやはり主語を理解できないという学説も出てきます。
それが、本当かどうかわかりませんが、少なくとも私にとっては真実でした。
だから、「死ね」とか「くたばれ」、「失敗してしまえ」というような言葉を発すると(もしくは強く念じると)、自分自身への命令として受け取るというわけです。他人に対してのはずの言葉を、脳が自分のこととして受け取ってしまうわけです。
潜在意識を変えるのは、相当大変です。
からだ塾でも、その変え方をお伝えしています。もちろん、マイナスの言葉はまず第一に排除すべきものです。それは十分わかっていましたが、今回のことで、もっと深い理解ができました。
本当に「人を呪わば穴2つ」なんですね。
昔の人はすごいですね。
さあ、あなたも、今日から言葉や思いを変えてみましょう!
さあ、「生きろ」「立ち上がれ!」「成功しよう!」です。
2020年8月のコラム 武道と人格
皆さん、こんにちは!
やっとのことで梅雨が明けて本格的な夏が来ました。
長い梅雨が明けて、本当にしんどいのは、「明けるかどうかわからない」「いつ明けるかわからない」という先行き不透明なことなのだなーと思いました。梅雨はいつか明けるだろうと思えるから大丈夫ですね。今回のコロナ騒動がいつまで続くかのほうが、精神的にはしんどいと思います。私もしんどいなーって感じますが、ここは仕方ないですね。
さて、毎回コロナについて書くのもどうかなーと思うので、今日は違うことを書きましょう。
私は長いこと武道武術を学んでいます。
そのことを言うと、普通の人からよく言われることがあります。
「武道は精神を鍛えるもので、人格者が多いのでしょうね」
・・・(^_^;;)いやいやいやいやいや。
一瞬、嫌みを言われたのかと冷や汗をかいたり・・・。
私自身、人格者とはほど遠いですから、もう穴があったら入りたいです。
どうしてそんなことを言われてしまうのかな・・・?
この人の知ってる武道家はたまたまごく稀にいるかもしれない人格者だったのかな・・・?
もちろん、親御さんたちには「人格者云々はよくわかりませんが、挨拶と返事はきちんとするように指導します」とご説明することが多いです。挨拶と返事だけで人格者になれたら苦労はありませんね。
でも、最近思ったことがあります。
挨拶と返事がきちんとできる人(もちろん笑顔で!)は、皆に好かれる第一歩ではないですか? 他人に嫌われるとか、孤立するという人は振り返ってみて下さい。笑顔で挨拶と返事がきちんとできてますか?
それから、人格という点と関係あるかなと常々思っていることは、「注意されたらありがたい」という感覚が身につくということです。武道だけに限ったことではありませんが、スポーツをしたり○○道というものをしている人たちにとっては常識ではないでしょうか。
注意してもらう、批判してもらうことが、自分の「独りよがり」を捨てることになり、上達につながります。それを「批難された」「否定された」と思って恐怖するということはありません。むしろ褒められるほうが私は怖いです。(褒めないで下さい・・・。これではまんじゅう怖いですね)。自分自身の不備、動きの無駄、自分では気づかないところを指摘してもらうことがいかに重要か認識していますから。
だから、向上心のある人間は注意してもらったり批判してもらえると、「ありがとう」と思うんですね。
それは、たぶん、一つの「人格者」たる要素としても良いかもしれません。
最近は「褒めて育てる」というのが流行りなのか、ちょっとした注意をしても「否定された」と不満を持ってしまう方が多いように感じます。
褒めて育てることに異論を唱えるつもりはありません。が、同じくらい注意されることや批判されることは重要です。それがわかっただけでも、武道を続けて良かったなあと、私は思います。
からだ塾でも大東流でも、あなたの気づかない身体の癖や偏りを指摘させていただいています。もちろん、良い点、すばらしい点についても指摘しますよ!!
暑い中ですが、夏も終わりがきます。
一緒に頑張りましょう!
2020年7月のコラム 疲労のメッセージ
皆さん、こんにちは。更新が遅くなり大変申し訳ありません。
いやー、疲労困憊とはこのことです。参りました。
私は4月、5月とほぼ休暇状態でしたが、6月からそれらを取り戻すべく、大仕事となっております。
(最高でも一日3コマなので、コマ数は大したことがありませんが移動時間がめちゃくちゃなことになっています)。
仕事があることは、とてもありがたいです。
そして、私は自分の仕事が大好きです。辛いこともありますが...。
さて、こんな私ですが、仕事が辛いときにこそ道場でのお稽古が楽しくて仕方ありませんでした。お稽古ができるから、今はがまんして仕事をしようと思って頑張ってきました。
ところが、この6月は違いました。
だんだん疲労がたまってくるにつれて、「道場に行きたくない」という気持ちがムクムクと顔を持ち上げてきました。あんなに楽しみにしていたことが、楽しみではなくなってきました。ワクワクもドキドキもどこかに行ってしまったかのように感じました。
そして、些細なことで涙が出ました。
学生がまったくわかってくれないとき、泣きそうになりながら(実際には涙が出てたと思います)一生懸命に説明をしましたし、学生のレポートに嬉し泣きをしたこともあります。
せっかく始まった仕事とお稽古なのに、なぜ自分がこんな生きる屍のようになってるのだろうか。
もちろん、「涙もろくなる」「楽しいことを楽しいと感じない」ということが、いわゆる疲労のためだとは頭で理解していましたが、本当にこんなになるとは楽天家の私には実感がわいていませんでした。
先生はいつも元気ですね。いつもそう言われていたので、まさか自分が! とびっくりしました。
コロナ禍のせいで失ったものもたくさんありますが、私にはこの気づきはとてもありがたいものです。(まだ現在進行形ですが)。
疲労というメッセージは、「疲れたー」という実感だけではなくて、こういう風に出てくるのですね。それを理解してからは、無理のない範囲で稽古を続けています。思い切って、一日稽古をしないという日も作りました。(再開後は嬉しくて、朝稽古、午後稽古、夜稽古と一日三回も四回も場所と種目を変えて稽古していました)。仕事だけはなんとかスケジュールを詰め込んでいますから、私の都合は後回しですし、私よりも学生たちがしんどいと思いますので、私自身は仕事を最優先して夏休みのない遅れて始まった前期(一学期)を乗り切ろうと思います。(もちろん、道場での「教える」仕事も手を抜きませんので、ご安心を)。
今は少し回復しています。
あなたは大丈夫ですか?
楽しいはずのことが楽しいと思えなくなったり、美味しいものが美味しいと感じられなくなったら、かなり重症です。
からだ塾では「疲労しない」身体を目指すのではなく、すぐそれに気づいて自分で手当てできることを目指します。ですので、先月の私の経験は、さらにからだ塾の日々の稽古に生かせると思います。
疲れた人が来たいと思えるような、稽古場を目指しています。
2020年6月のコラム キャベツ畑にて
皆さん、お元気ですか?
新型コロナ感染症の拡大防止による自粛も少し解除されてきました。
私たちの会も、先週から施設の開放によって稽古を再開しました。
久しぶりの皆さんとの稽古はとても楽しく、愉快に時間を過ごしました。
さて。
コロナ騒動が、もたらしたもので『新しい生活様式」というのがあります。
なかなか無茶なことが書かれています。例えば二メートル離れてできる武術のお稽古は高がしれています。
子どもたちと一緒に稽古すればわかりますが、子どもたちは団子になってくっついて休憩時間遊びます。
(小学中学年くらいからだんだん距離を取りますが、小さければ小さいほどそれは顕著です)。
新しい生活様式がもたらすものが何か・・・。
ある日、車の窓から外のキャベツ畑が見えました。
陽光の下、たくさんのモンシロチョウが飛んでいます。
一見キレイなうららかな光景ですが、農家の方にとっては違って見える風景でしょう。もちろん、キャベツは収穫が終わっていますから、その畑は今はキャベツだったもので覆われていました。
私たちもこのキャベツ畑と同じではないだろうか。
きちんと整列して植えられている、「キャベツしかない」「他の雑草を排除」して成り立つ畑という構造自体が、モンシロチョウを呼びこみ、大量発生をさせるのではないか?
感染症とておんなじです。他の生物を排除して、「人間」ばかりがいる空間というのは、ウイルスだろうと細菌だろうと格好の餌場でしょう。しかし、人間はよりきちんと他の生物を排除しこの構造を強化してきました。その結果、大きな目に見える敵(野生生物、寄生虫、細菌の多く)は激減し、私たちは我が世の春を謳歌しています。(地球上でこんなに増えた生き物は他にいません)。
そこにこのウイルスです。
ここでは、このキャベツ畑をより厳しく管理してどんどんキャベツ畑を拡大していくのか、そもそものキャベツ畑という構造自体が限界に来ているのかを見ていくことが必要ではないでしょうか。
「キャベツ畑」がある限り、モンシロチョウの大群は来ます。
農薬や除草剤、肥料や手作業(見つけたら青虫を排除する)でもっと厳格に管理していきますか?
周りの荒れ地や休耕地も根絶やしにして、モンシロチョウがいなくなれば良いですか?
私は、少し違う考えを持っています。
今すぐではないけど、現代社会のこの「キャベツ畑」性を問題にしていくべきではないかと思うわけです。
殺菌や消毒もそうですが、他生物排除の構造を見直したい。
団子になって遊ぶ子どもたちは、たぶん体表の微生物の交換もしています。
いや、それ以上に人間が人間であるための大事な何かを育てています。
私は、子どもたちが遊ぶのを見ていつも思います。彼ら彼女らの、笑顔や些細なトラブル、駆け引き。相手に意識を向けること、向けさせることの難しさ・・・。様々な経験をして、短い時間の休憩が終わります。
他の生物(もちろん微生物も入ります)と、生きること。
人間だけが生きているのではないと思います。
コロナウイルスの問題が、環境問題や人口問題などとつながっていることを意識できる人はそう多くありませんが、ぜひ考えてみて下さい。
そして、人間だけが清潔に管理された下で生きれば良いと考える世界には、私は住みたくないです。
そして、そういう社会が来る前に、私の寿命が尽きるであろうことに、少しホッとしています。
皆さんは、どういう社会をお望みでしょうか。
一人一人が考えることで、全体が動き始めます。
2020年5月のコラム 自宅での稽古
2020年4月のコラム 今の世界に適応する
皆さんこんにちは。
今回のコロナウイルスの蔓延は、看過できないレベルになりました。いつ収束するかわからないというのが、一番心を苦しいものにします。同じトンネルでも、あと○○分で抜けるとわかっていれば平気ですが、長い長いトンネルで先がわからないというのが、一番不安なのです。
医療崩壊や、オーバーシュートという聞き慣れない言葉が飛び交い、様々な行事イベントが無くなり、地域によっては公共の施設が閉鎖になり、学校もお休み。普段とは違う状況に、まるでSF映画の中のようだ・・・という感想をお持ちのかたもおられるでしょう。実際に多くの小説や映画が、感染症を取上げています。(ゾンビ映画も感染症フィクションの亜型だと思って良いでしょう)。
今後、感染症がすぐに終息することはありません。
不安をあおるわけではありませんが、一番最近の感染症の世界的流行として有名な「スペイン風邪」は1918年~1920年の三年間の流行でした。(スペイン風邪はインフルエンザの一種ですが、当時の平均寿命が約12歳低下するほどのインパクトでした)。
ここで、皆さんにお伝えしておきたいのは、二点あります。
一点めは、「長丁場になるよ」ということです。
ワクチンが開発されても、変異の多いRNAウイルスですから天然痘のように完全撲滅のようなことにはなりません。
長丁場で、今後はこのコロナウイルスと共生していくくらいの気持ちで生活をしていくしかないのです。
今、田舎である山口では感染者は限られていますが、そのうちこちらにも徐々に来ることでしょう。その「徐々に」というのが大変重要で、「徐々に」感染が広がることによって、パニックにならずに、「人人感染をする病気、確率は低いが重症化することもあり、死亡することもある疾患」という当たり前の対応をきちんとすることができます。
終息まで長くかかります。来年オリンピックなどは論外です。(と言いながら、この文章が的外れで来年は笑ってオリンピックができることを期待していますが・・・)。腹を括って、変な楽観論に惑わされないようにしましょう。楽観視して、駄目だと落ち込む・・・このジェットコースターのような心の動きが、一番人間の心を疲弊させます。
二点目は、「希望を持って生きよう」ということです。
前述のスペイン風邪も3年かかりましたが、終息しました。ペストは25年かかりました。江戸時代は多くの人命がコレラに奪われました。しかし、我々は今生きています。ということは、人類は何度も何度も感染症によるピンチを生き延びてきたのです。運が悪ければ自分は命を落とすかもしれないけど、それは長い目で見れば人類史の中では何度も何度も起きてきたことで、たまたま我々がその時代に遭遇しちゃったということなんです。感染症の爆発的流行は、別に珍しいことじゃないんです。(もちろん、現在ではかつてないほど人の移動が多くはなってますが)。
そして、「今」をしっかり生きようということをお伝えしたいです。感染症のない日常も、「今」も、あなたの大事な1日1日です。できないことはできない。けど、できることは沢山あるはずです。学校が休みでも、仕事がピンチでも、稽古ができなくても、できることはある。そして、いつかは日常が戻ってくる。希望を持って生きましょう!
終末期医療で良く言われる言葉に次のことがあります。
「最悪を想定して、最善を期待する」「Hope for the best, prepare for the worst」・・・これらの言葉は、日常の心構えとしても有用です。
来月は、この状況が変わらなければ、室内で一人でできるワークをいくつか紹介しましょう。
ちなみに、からだ塾では換気をよくして稽古を続けています。
2020年3月のコラム 免疫力を上げる!
皆さん、こんにちは!
元気ですか?
さて、世間ではコロナウイルスの影響で大変なことになっています。
山口では小中高の休校、専門学校の一部休校、スポーツ関連でも大会や審査会の中止が相次いでおります。
共働きやシングルマザーの悲鳴が、私のところにも入ってきています。
給食供給で生活をしていた人たちも、大変なことになっています。
今日は、別のことを書く予定だったのですが、急遽変更して免疫力について書きたいと思います。
といのも、私は「経済」のことについては全くわかりませんが、「免疫」や身体のことについては、少しだけわかることがあるからです。
感染症(コロナウイルス感染症を含む)は、他の生物(微生物)が私たちの身体の中で暴れる状態です。
暴れる微生物を「病原微生物」と言います。「病原微生物」を排除する、もしくはおとなしくしてもらって「共生」できるようにするのが免疫システムです。免疫システムは「咳、くしゃみ、鼻水」といった反応から、血液の中の白血球が主役となる反応まで色々あります。
免疫力を高めるのに必要なことはとてもシンプルです。
からだ塾に来ている人は、すぐにわかりますね。
身体によいことは、免疫力アップでもあるのです。
1.きちんと食べる(美味しく、栄養をとる。過剰摂取に注意)
2.きちんと寝る(時間だけではない。良質の睡眠を)
3.きちんと出す(排泄の働きを邪魔しない)
4.笑顔!!((^o^)笑顔ができない人は、割り箸を横に咥えましょう)
5.嘘をつかない! (なるべく!!)
6.他人に親切にする!!(人だけじゃなくて、他の生き物や道具にも優しくなりましょう)
どうですか!?
わかりやすいことだし、今まで何度も言っていたことですね。
免疫力アップだけではなく、運も良くなり、人生が楽しくなります。
こんなときに笑っていられるか! と怒る人もいるかもしれません。
質問です。怒ったら何か変わりますか? 事態が好転しますか?
怒れば怒るほど、事態は悪化します。ひとまず怒りは横に置いて、割り箸一本咥えて下さい。
無理してでも笑顔を作ると、自分のなかが変わります。
楽しいから笑うんじゃナイです。
笑うから楽しいのです。
だから、普段の顔が笑顔になるように心がけてください。
無表情や仏頂面は、今日からお終い。
笑顔は伝染します。コロナウイルスじゃなくて、笑顔を伝染させましょう。
2020年2月のコラム ちっぽけな自分を生きる
皆さん、こんにちは!
更新を待って下さった方、遅くなりすみません(^_^;)
パソコンの不調で四苦八苦しておりました。この話もいつか書きましょう。
今日は大学での講義の話です。
私は理系の学部で生物学を(も)教えています。
基本的な生物学の知識を講義した後に、生命の歴史を簡単にご紹介しています。
中でも大きなインパクトとして地球誕生後の隕石衝突と六億年前の全球凍結について話をします。
隕石衝突は、直径300キロメートルくらいのものが地球に直撃したとして、そのときに何が起こるか。
そして、生命はどのように生き延びたか?
全球凍結は、地上の平均気温が氷点下50度となり、すべての海が凍り付く中で、何が起こったか?
私たちの祖先はその苛烈な環境を生き延びたのです。
もちろん多くが死にました。しかし、優れているから生き延びたわけでもないし、劣っているから死んだわけでもないんです。生物の歴史においては、日常で「優れている」ことが、危機に直面したときは何の役にも立たないことがたくさんあります。優劣なんて、相対的で環境依存的な話なんですね。普段の日常世界では「劣っている」ように見える能力が、必要となる場合もあります。運も大事です。
その授業の後のことです。
前から数列めに座っていた学生が、おずおずと近づき私に言いました。
「先生。今日の話は、もっと前に聞きたかったです。高校時代とかに聞けたら良かったです」
私はポカンとしていたと思います。
時間がない中、学生さんに話を聞くと高校時代に本当に辛いことがあったということでした。
そうだよね。私は頷きました。
生物の歴史を知ると、自分自身がちっぽけな存在であることを思い知らされます。
生物の歴史を知ると、連綿と続いている「私」に連なる生命の流れを感じることができます。
ちっぽけな「私」に流れる壮大な命の流れ。
そして、たぶん、遠い未来にこの壮大な流れも終わるわけです。(人類はもっと近い未来に終わりがくるかもしれませんが、恒星には寿命があることを思い起こせば地球の終わりは必然でしょう)。
そういうことを知れば、今日どんなに辛いことがあっても、イヤなことがあっても大丈夫な気がします。
一歩引いて、生物の歴史から自分を見れば、自分の悩みなどどうでも良くなりそうです。
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去年の秋から、オリオン座のベテルギウスが暗くなっていると話題になっています。
一等星だったものが、とうとう二等星になりました。
冬の大三角であるシリウス、プロキオンと共に一角を担っていたベテルギウス。
科学者たちは、ベテルギウスの超新星爆発の可能性を示唆しています。
実際に爆発すると、半月よりも明るく夜空に輝くらしいです。
私たちの生は、儚い。宇宙規模から見れば、小さい小さい存在。
それをよく知って、よくよく理解して、なお私たちは生きるのです。
どんなに辛いことも、1000年後には無くなるでしょう。
だからこそ、「今」を必死に生きるのです。
2020年1月のコラム 自分で生きる覚悟
2020年になりました。
令和になって、初めてのお正月ですね。
めでたくもあり、めでたくもなし・・・と詠んだのは、かの一休宗純和尚でしたね。
(「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」諸説あり)。
いや、私は敢えて「おめでとうございます」と言いましょう。
前月で、「助けを呼ぶ」能力について言及しました。
今月は、「自分で生きる」覚悟について書きましょう。
自分の身体について、普通の人は「医者に任せれば良い」「健康診断を受けているから大丈夫」と考えがちです。
信頼して納得して任せることと、ただ「医者だから」任せるというのは違います。
健康診断で、異常がないから大丈夫というわけではありません。
現在の医療において、「説明と同意」と訳されるインフォームドコンセント(informed consent)は、患者を主体として扱います。つまり、医療の主役は患者自身だということなのです。
医療の当事者として、医師や医療スタッフに良く説明を聞いて(質問をして)納得して医療を受ける。
そういうプロセスを通じて、医療が行われるわけです。
私は、そのプロセスのもっとも重要な点、「身体に対する責任は自分(患者)自身にある」ことを改めて言いたいのです。
医療のサポートを受けても、生きるのは自分自身です。
納得して医療を受ける。そのためには、素人であっても自分の身体についてなにがしかの勉強をせねばなりません。
最低限の身体についての知識があれば、オカシナ療法に引っかかることもありません。
訳のわからない健康食品や、高価なサプリメントに踊らされることもなくなります。
勉強? と聞くとゲッソリするかもしれませんね。
試験もない単位もない勉強は自由で楽しいものですよ。
そして、私は身体の「主体」者として生きていくことをお勧めします。
「主体」者であるということは、自分のことは自分で「できる限りの」責任を負うということです。
勉強をする、できる限りの説明を受け納得して医療と関わる。
健康診断は自分のことを知るチャンスでもあり、勉強をするチャンスでもあります。
もちろん、「主体」者として生きていくには相当の覚悟が要ります。
何故って?
人体は、老いて、死ぬものだからです。
老いて死ぬ身体の持ち主として、それを冷徹に見据えて生きることは、かなりの胆力が必要です。
誰も老いたくない、誰も死にたくない。
けど、皆老いていくし、皆死ぬ。人間の死亡率は100%です。
どんなに成果を上げた人生でも、どんなに恵まれた美貌でも、終わりは来る。
正月の一休宗純和尚の言葉は、まさにそのことを知らせてくれます。
めでたくもあり、めでたくもなしと彼は詠みましたが、私はめでたいと思います。
死を見据えて、老いを見据えて生きていくなら、自分の身体のことを「自分のこと」としてきちんと向き合うなら、それはすごいことです。(私もできるかどうかわかりません。かくありたいとは思いますが)。
正月であれ、平日であれ、自分の身体の時間を見据えて、自分で自分の身体の責任を取る。
最終的には「きちんと死ぬ」ために。
節目である正月は、また次の一年も精進しろよと言われているように感じます。
自分が自分のことに責任を持つために、勉強し、「身体の声」に耳を傾ける。
一年よく頑張った。次の年が来たから、もっと頑張ろう。
老いと死の足音を聞き逃さず、ジッと耳を澄まそう。
そう思って、私は正月を過ごしました。
一年よく頑張ったから、「おめでとう」です。
今年もよく頑張って自分が納得して自分の人生を自分で生きる覚悟があるから、「おめでとう」です。
あなたは、身体のことを他人任せにしていませんか?
自分自身で向きあって、しっかり向き合ってから、他人へSOSです。
前月の話と、無理矢理つなげましたが、お分かりいただけたでしょうか。
またこの一年、皆さまのサポートができることを楽しみにしています。